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視野の重なり 2

 そいつから眼を離して左右を見回してみたのは、ここまで来た理由があったというだけだ。門柱のつもりだろうか、一組のありふれたコンクリートブロックが突っ立っている。幾重にもつけられた引っかき傷のようなものの上に「海浜十三ー二十三」と機械的な記号を刻んでいる紺色のブリキの板が打ち付けてある。中に入れば巨大に過ぎるクレーン車の群れが誰かの帰りを待っているように砂利の敷き詰められた駐車場の上に佇んでいる。細かい砂利は踏みしめると水を含んで、靴の動きに抵抗するようにじわじわと白い敷石を黒く染め上げる。俺は帰ろうとする足を無理に引きずりながら機材置き場を通り抜けて、ひび割れだらけのコンクリートの上に出た。建設会社のロゴの入った軽自動車が一台停められていた。そこではスカイブルーの上っ張りの女の事務員が何かに躊躇しているように隣で突っ立っている。女は俺を見つけると驚いたように軽いお辞儀をした。眼の大きな女だ。顔を上げた女に俺が感じたのはそれだけのことだった。彼女も別に俺の様子を気にするようでもなく、背伸びを何度かして後ろのプレハブ作りの事務所を覗き込んだ後、ようやく手に握られていたキーを軽自動車のドアの鍵穴へと差し込んだ。俺はままよと埃に白く染め上げられたタイルが気になる玄関口に足を向けた。油が効いていないのか割の重いアルミの扉を開き、当たり前のように置かれた観葉植物の脇をすり抜ける。正面の、テーブルともカウンターとも付かないようなついたての上には、受付と書かれたプラスティックのカードが置かれているだけで人影も無い。ブルゾンのポケットからしわくちゃの履歴書と職安の案内状を取り出してそれを机の上で押し広げてぼんやりと佇む。耳を澄ませば表通りをまた何台か大型車が通り過ぎていく音が聞こえてくる。ついたてで仕切られた角を過ぎた階段の裏側から、トイレか何かに行ってきたのか、薄鼠色の作業着で濡れた両手を拭いながら、男が一人、偶然とでもいうような顔つきで転がり出た。頭の禿かかった、見たところ五十がらみの現場監督だろうか、あくびと共に顔に出た笑みを急に消し去ったかと思うと、受付に立ち尽くす闖入者に驚いた様子で駆け出してきた。

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ジャンル : 小説・文学

視野の重なり 1

 何だってんだ、この空は!俺の頭で行きつ戻りつ。降るにしろ降らないにしろはっきりしろ。道端に轢かれて伸し烏賊のようになった鼠の死体、奴だってこんな薄汚い天井の下じゃ安心して成仏も出来ない。ひび割れだらけのアスファルト。こいつにしてもどうにも空模様を計りかねた様子で、黒いんだか白いんだかわからない色のまま、とりあえず真っ直ぐに視線の消えるままに延びている。ベルトコンベアのでかいのといった車道に飛び出してみれば、トレーラーが巨大なクラクションを鳴らして通り抜けていく。その後ろから走ってくる危険物を積んだトラック運転手の迷惑そうなその瞳!馬鹿にするなと、こちらも睨み返す。頭にきたのか急にアクセルを踏み込んでまるでイタチの最後っ屁、排気ガスを顔面にひっかけられた。それでも咽ることのできない俺の肺の無神経さ加減!うんざりしている俺の横にあるのは、溝とも川ともただの窪みともつかないような水溜り。鈍い銀色の光を放つポンプが、ごぼりごぼりと溜まった溝に廃油のような水を流し込んでいる。どうせならこの下にある泥の中にでも眠っているのがお似合いなのかもしれない。こいつだけが俺を地面に張り付かせているのかと思うと、カッとなってポンプの隣でうなりをあげている野外用発電機を思い切り蹴飛ばしていた。
 

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鳥のいる風景 14

「お客さん、かなりお疲れのようですね」 
 マスクをしていない方の駅員が後ろからそう尋ねる。振り返ってみると気づかなかったが、遠慮がちに覗き込んでくるその瞳の色がやや青いような気がしていた。
「いえ、別にそれほどでは・・・」 
「いいえ、私の見たところではかなり疲れていますね。そう言うときはこれなんかどうですか、これは馬の脂を煎じて・・・」 
 マスクをした方が懐に手を伸ばそうとしたとき、もう一方がその手を押さえ込んでそのまま俺の手から切符を奪いはさみを入れた。
「インチキですよインチキ。そうに決まっているじゃないですか。さもなきゃ世の中に過労死する人間はいませんよ」 
 そのままホームへと向かい木造の駅舎の手前で気持ち悪そうに身体を震わせながらディーゼルカーが停止する有様が目に入る。俺は手にした写真の束を無造作に足元にあるボストンバックに放り込んだ。俺が乗ってきても車内の乗客は一人として反応を示さない。まるでここには駅などと言うものは存在しないとでも言うように、彼らは無関心を装い続けている。
 腕時計を見る。列車はゆっくりと加速しながら窪地のようなところを進んでいく。掘っ立て小屋のような家のそばでは老人がいつまでとなくトラクターの修理をしている。
 各駅停車のディーゼルカーのたてる憂鬱なエンジン音が昨日から続く夢から俺は弾き跳ばして、硬すぎる座席の上に叩きつけた。窓の外には汚らしいくらいに茂り続ける広葉樹の森。視界は開けたり無くなったり、下のほうに光ってみせるのは地図で見たY川の水面だろうか。
 外のありきたりな風景に飽きた俺は、これもありきたりな車中の人々にその視線を移した。昼下がりのノンビリした空気の中、誰もが思い思いにゆっくりと流れる空気の中にたたずんでいる。向かい合わせの七人がけのロングシートには計ったように等間隔に四人の客が座っている。
 一番右端、丁度俺の正面に座っている女子高生。しきりとカールのかかった脱色された髪を繕っている。うすいかばんの中身はたぶんファッション雑誌かなにかだろう。時々目が合うたびに、まるで汚いものにでもであったように顔をしかめて見せる。その隣には行商の帰りだろうか、小豆色のふろしきに包んだ自分の胸の辺りまで積み重ねられた荷物を座席の前においていかにもさわやかそうに首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭っている。それも一段落すると、駅のゴミ箱から拾ってきたようなしわくちゃのスポーツ新聞を広げて芸能欄ばかり飽きることなく読み続ける。
 俺はその隣に座った無愛想な山歩きの人々の視線を無視すると、もう一度、外の変わることのない景色に目を移した。相変わらず外を流れる木の葉の群れはどれもこれも申し合わせたように鈍い緑色の光を俺の顔に向かって注ぎ込みながら俺の行く先の風景をわざとさえぎって見せる。
 結局俺に残されたのはこの風景だけだったのだろうか。そこには変わらない外の空気を見ながら、深い絶望の色を浮かべている俺が映っている窓ガラスを息を殺して眺めている俺がいた。


                               了

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鳥のいる風景 13

「荷物、持とうか」 
 一語一語、間違えることを恐れるかのようにゆっくりと話す聡に、俺は持ってきた荷物を差し出した。まるでこの村に来てからの出来事が夢のように感じられる。奴はようやく安心したようにそれまでの不安げな足どりが少しだけ軽快になっているように見えた。聡は車のトランクを開け、まるで貴重品でも扱うように丁寧に俺の荷物をその中に入れる。おれはオートロックによって解除された後部座席のドアーを開き、昔のように無造作に座る。
「一応、禁煙だから・・・」 
 聡が申し訳なさそうに言ったのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなんだろう。先ほどの饒舌は影を潜め、聡は真正面を向いて運転に集中している。
 日差しが絶え、次第に効き始めるクーラーの冷機に心地よい疲労感。俺は全身の力が次第に抜けていくのがわかった。森の中の緩やかな坂道が与えてくれる心地よい衝撃、聡の子守唄のような独り言、意識は次第にうすくなりかける。しかしなぜだろう、そう言うときに限って気まぐれな日差しが俺の顔面をひっぱたき、眠りは自然と遠くへと去っていく。残された俺はバックミラー越しに心配そうに俺を見守る聡のにごった目玉を見つめながら咳払いをしてどうにかその場を取り繕う。
 あのロータリーに車は止まり挨拶もせずに俺は車を降りた。ポケットから切符とハンカチを取り出し、右手に持ったハンカチで額の汗を拭いながら時代物の駅舎に填められた木の枠を持つ窓のほうを見つめた。中には二人の駅員がこのように客も降りない駅だと言うのに、いかにも忙しそうに立ち働いていた。一方は風邪でも引いているのか、口のところにマスクをしている。しかしそれを除けば、切れ込みを入れただけのような目も、潰れた鼻も、にきびだらけの頬も、時折、下を向いて帽子のつばをこする癖までも全く瓜二つだった。
 そのうちの一人、マスクをしていない方の駅員が、雑巾を持ったまま窓枠の方に顔を向けたとき、ようやく珍しい乗車客を見つけたのか、マスクをしているほうの駅員の肩を叩くと雑巾を放り投げてそのまま奥の部屋へと消えていった。俺はその様子をじっと眺めていたが、このままホームにいっても仕方が無いと思って、とりあえず改札口に行こうと駅舎を横に見ながら歩き始めた。
 かつては大いに栄えたのかもしれない。事実この長大なホームは二両編成のディーゼルカーが止まるにしては不必要な長さで、小さな村の中央部を占拠していた。周りの民家も、多くは半分崩れかけながらただここが村であったことを証明するためだけに立っていた。
 そんな風景を見ながら改札口に行くと、二人の駅員が先を争うようにして改札口に立とうとしている。二人ともその定位置を確保することに一生懸命で、俺の方は眼中に無いと言ったような感じでおれは改札口の手前で立ち往生してしまった。
「困るなあ、それじゃあ通れないんだけど」 
 咳払いをしても反応を示さなかった二人も、俺のこの言葉が聞こえたのか急に争うのをやめて、一番俺に近かったマスクをしている方が切符を受け取り、俺はようやく改札口に入ることができた。

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鳥のいる風景 12

 時計は十時をさしていた。もう三十分はこうして間の抜けた行進を続けたことになる。急に森が切り開かれて原っぱのようなところに出た。光が急に激しく俺の脳天を撃った。目の前が一瞬白くなり視界が奪われる。俺は眼を閉じて地面にうずくまった。時間が流れていった。俺は何度と無く立ち上がろうとしてみたが、足にそれまでにない疲れを感じて立ち上がれずにいた。さすがに三十を過ぎたからだにはかなりの無理が来ていたようで、足ばかりでなく体のあちこちが激しく痛み出した。
 風を感じた。村を出て初めて感じる山から吹き降ろす冷たい風。俺の後ろの森が悲しく啼く。
 クワー、鳥の鳴き声が林にこだまするのを聞いて俺は我に返った。真緑の木が一本、俺のちょうど正面にあった。これほど真剣に一本の木を見つめたのは久しぶりだ。それは様々に生い茂る木の中、一本だけ真っ直ぐにまるでこの森の空間を仕切る一筋の線のように伸び上がっていた。そこから分かれる枝はほかの木のねじけた枝を押しのけてこの広場一帯を覆い尽くし空と言う空をその緑色の広い葉で覆っていた。俺はその尊大な姿に少しの抵抗と同じくらいの敬意を払いながらゆっくりと近づいていった。そしてその枝の一本から垂れ下がっている奇妙な陰を俺の眼がなぞるようになったとき、俺の足はそれまでになくしっかりと大地を捉えるようになっていた。
 ぶらさがっている奇妙な物体。風にその枝が揺れるたびに左右に、時折回転するようにしてそれはあった。近づくに従ってそれは人間の姿をなしているように見えた。俺の眼の高さの部分。それはシミだらけんジャージ。良く見ればかなりの間着古したようで、毛玉が多く浮き上がっている。筋張った右手。その手は昔、それもかなり昔には多くの物を運ぶ役にはたっていただろうが、今やその力の影は跡形もなく、肉は落ちて、浮き上がった血管と骨のあとだけが妙に物寂しげに俺の眼の陰に焼きついては消える。伸ばされた髪。後頭部で纏められたその髪は脂ぎって、そのくたびれたように不健康な頬にはえた無精ひげと重なって妙にやつれきった印象を見るものに与えた。
 武だった。木の枝の一本、まるで仲間はずれにされたように下に向かって伸びる奇妙な枝にロープを巻きつけて、武は首を吊っていた。俺はゆっくりと近づいていって、その周りを何度か回った。足元には木で出来た台がちょこんと置かれているだけで、遺書のようなものは見当たらない。不思議なことかもしれないが、俺は取り乱すこともなく淡々とその死骸を見つめていた。口から泡のようなものを吹いて、白目をむいたその物体は決して気持ちのいいものではなかったが、少なくともこの村に入ってから初めて愛着の湧くようなものに出会ったような気がして、俺はさらに何回かその周りを回ってみた。何度回ってみてもただ風が吹くばかりで武は生き返る気配もなく、俺もやがてその歩みを止めた。ぼんやりと俺は地面に腰を下ろした。熱気を帯び始めた森の空気が俺の顔面を緩やかに撫でる。右手の先に当たるのは一昨日聡が撫で回していた丸っこい石。その正面には武が持っていたあの鞠が当たり前のように転がっている。俺はそれを手に持つと、軽く目の前で放り投げてみた。
「おい、何してるんだ」 
 青年団の一人が駆け込んでくる。俺はただ膝の上の鞠をころころと転がして見せた。鉢巻を締めた二十二三の男が後ろに駐在を引き連れてこちらに走ってくる。彼らは広場の中央にぶら下がった武の死体を取り巻いてただ呆然とそれを下ろすべきかどうか思い悩むことに夢中なようで広場の片隅で座っている俺のことなどまるで眼中に無いように見えた。
「おい、早く下ろしてやれよ」 
「これ以上誰か入れるんじゃねえぞ」 
「誰か本部に連絡しろ、早くしねえか」 
 広場に人が満ちてくる、俺はどうも居辛くなって立ち上がった。
「健一さん」 
 一番はじめにこの広場に現れた鉢巻を締めた男が俺を呼び止める。俺はその言葉に刺激されたように走り出した。人々はそんな俺をただ呆然と見送っていた。

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鳥のいる風景 11

 獣道は少しばかり間の抜けたように一際大きな倒木の周りで細い支線に分かれている。一体なぜこのような場所が生まれたのか、理解に苦しみながらその倒木に近づいていった。煙草に火をつけようと腰を上げた俺の目の前に動くものが映ったように感じた。ゆっくりとゆっくりとその丸いものは藪の下を移動していく。俺は思わず胸のポケットから小型のカメラを取り出してその物体が出てくるのを待った。
 奴だ。心臓の鼓動が早くなってシャッターの上に載せた指が汗ですぺるのがわかる。突然自分の概念が破壊されたようだ、頭の中まで少しづつ曇ってきた。しかし、そんなことはお構い無しに鳥は静かに藪の中で地面を穿り返している。俺は息を殺してできるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹を掻き分けて大きな木の根元の少し開けたところまで来て観察を続けた。こいつをどうにかしなければならない、すべての不安や憤りが急に人差し指に凝縮されたように感じた。俺の指はシャッターを切っていた。
 ストロボの光が草叢を黄色く染める。
 急に鳥は走り出した。決して早くない。大またで歩けばすぐにだって追いつくことができる。しかし、俺はあえて捕まえようともせずにその鳥の走っていく方向についていった。茶色い羽はこの土地ではかなり役に立つ。うっかりすると木の根や泥と勘違いして見失ってしまうこともたびたびあった。しかし慌てているのか、ばたばたと打ち鳴らす羽の音で俺は自分の間違いに気づきすぐ追跡を再開することができた。
 森はだんだん暗く、深くなっていく。鳥は相変わらず無様な逃避行を続けている。それはまるで逃げるというよりも俺をどこかに案内しているようにも見える。もし、彼に急に立ち止まってじっとしているという能があれば、とうに俺は彼を見失っていただろう。
 鳥の逃げる速度が遅くなってきた。俺は時々立ち止まっては逃げていく鳥の姿をカメラに収める余裕が出てきた。鳥のほうは相変わらず必死になって疲れてきた体に鞭打ちながら森の奥に向かって走り続ける。

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鳥のいる風景 10

 一つ一つの疑問。どうしてそんなことをするのだろうと言う疑問を抱えながら、俺は爆発音を耳に響かせながら目を覚ました。祭りの朝、号砲の音が響き渡る。時計を見ればいまだ六時前、そのくせいつもは見捨てられている道路を歩く人影が目についてくる。ひときわ胃の下に染み渡る空腹に命ぜられて食堂に行った。用意された朝飯は冷え切っていたが、一日ぶりに食べる食事の味は俺の舌に妙に懐かしく響き渡った。それでいて吐き気がするのはなぜだろうか。結局そのすべてを食うことも出来ず、俺は部屋に戻ると手にポケットカメラを持って外へ出た。
 カメラを片手に人々の群れがひび割れた道の上を移動している。俺もまた、その流れを利用して歩き続ける。風も無く、人々の無意識な熱気に蒸しあげられ、朝の空気は白くよどんで見えた。道を覆うように生える木々は、今まで見たことも無いような数の人々に怯えるようにその葉を揺らしている。俺はそのまま朱に塗り替えられた安っぽいコンクリートの鳥居をくぐり、砂利道の鳴る参道に入り込んだ。人々は思い思いに露店に引っかかったり、木々にまとわりついたり、カメラを構えたりしながら時を過ごしている。俺はどうすることもなくて、ただ参道を直進した。
 この小さな集落にどうやってこれほどの人間が隠れていたのだろうか、そう思えるほどの人出に狭い境内は混乱していた。誰もがここにいる理由をこじつけるために笑顔を浮かべている有様が目に付いて、俺は人ごみを避けながら人員整理のために張られたロープを伝って本部席のあるテントの中に転がり込んだ。
「こっちこっち」 
 さもそれが当然といった風に安っぽいテーブルの上に置かれた時代遅れの無線機の隣で、実行委員長という腕章をつけた聡が手招きをする。その隣で立ち働く青年団員が、俺の方をめんどくさそうに見つめると形だけの会釈をする。どうもこの場に不釣合いに見える武は俺を見つけるとなにかに出くわしたような顔をして人ごみの中に消えていった。
「どうだ、凄いだろう。こんなに祭りに人が出るなんて、ここ数十年無かったことだぜ。あの古い神社の石っころがこんな効能を持っていたなんて、全くお釈迦様でもわかるめえってのはこのことだな。まあ見てろ」 
 聡はそう言うと携帯電話を手に立ち上がった。俺は奴の座っていた席に腰を下ろして目の前を横切る人々をぼんやりと眺めていた。後ろの方で馬の嘶きが聞こえる。俺は急に気分が悪くなって立ち上がった。
 三頭の白馬が気だるそうに突っ立っている中庭を抜け、大きな欅の影を通り過ぎた。確かにそこには村の子供達が、世間の喧騒とは無縁なところで遊んでいた。その姿、無邪気で何一つ足りないものはないというような姿。それなのに俺はその姿の中に奇妙なほどの嫌悪感が輪郭をあらわにしていく。どうしようもないじゃないか。どうすればいいんだ。こめかみに手を当て、そこにあってしかるべき痛みの無いことを悲しむようにして俺の足は自然と森の方向へと向かっていた。
 原生林の中に入っていく。果てしなく茂る笹を切り裂いて道はどこまでも続いていた。俺は足場の悪い獣道を迷うことなく一直線に進んだ。一体そこに何があるのか、そんなことは何一つわかりはしないが、ただあの村でつまらぬ光景を見るよりはいくらかましなように思えた。
 手入れの行き届かない杉の森を歩くことは、特にこのような蒸し暑い日に一人だけで着の身着のままの格好で歩くことはそれほど生易しいものではない。胸に届くくらいまで生い茂る下草に悪戦苦闘しながら進んでいたかと思うと、急に視界が開けて目の前に大きな倒木が横たわっている。さらにその木に沿って進んでいくと腐りかけた雑誌とタイヤの山に打ち当たる。それでも俺はどうにかこうにかむき出しの肌に何箇所とない蚊にかまれた跡をつくりながら獣道を進んでいった。確かに無駄なことかもしれないが村に来たその日から、こうすることになるとはわかっていた。そんな気がしていた。

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鳥のいる風景 9

 俺は天井を見つめていた。目の前には聡が新聞の経済欄に蛍光ペンでなにやら書き込みをしていた。武は相変わらず俺を迎え入れたときの表情そのままに呆けたように椅子に腰掛けている。昨日は気づかなかったが、その膝の上に丸い玉のようなものを抱えてそれをいとしげに撫でながらたまに俺と聡の方を軽く眺める。
「何か気に入らないことがあったのか?あの部屋が嫌だったら奥の洋間でも・・・」 
 昨日から一言も口を利かない俺に苛立っているような口ぶりが聡の自分を取り戻したことの宣言のようにも感じられる。俺は奴に答える代わりに軽く右手を振って、立ち上がろうとする。
「おい、何とか言ったらどうだ。気に入らないなら気に入らないって。確かに順番から言えば今度の祭りを仕切るのは当然だけれど、やっぱり祭りは・・・、よう・・・地元に」 
 俺が椅子に座ると同時に急に聡の表情が硬くなり、言葉がすべて口元に吸い込まれていく。そんな姿を見ていると、聡の誤解を解く気なんかは急に失せ果てて、このまま不機嫌な面を装うことを硬く決めてしまいたくなる。
「祭り、かなり今回は派手にやるんだな」 
 俺はテーブルの上に置かれた新品のピースの箱を開けながらつぶやいた。聡は少しばかり眉をひそめたあと、無理に平静を装いながら言葉を切り出そうとしてみたが、どうにも喉の奥で慣れない緊張と無意味な虚勢とがせめぎあっているようで、声にならないうなり声だけが俺の心の中に響いた。俺はわざともったいつけて手にした火の付いていない煙草を手の上で転がした。聡はその姿をしばらく呆然と眺めていたが、すぐに気を取り直して机の上に置かれたジッポで俺の煙草に火をつけた。俺はその煙を胸いっぱいに吸い込みながら、誰も手をつけたことがないだろう灰皿に手を伸ばし、気短にその上にわずかな灰を転がした。
「明日になればわかるよ」 
 下を向いたまま、久々に浮かんだ気の利いた台詞回しをかみ殺しながら聡は部屋を飛び出していった。俺は満足して灰皿に手を伸ばして得意げに煙草をふかして見せた。やけに苦く感じるのは、きついニコチンのせいだろうか。それとも慣れない虚勢のせいだろうか。奴の前でガキ大将面を平然とできるような年は、もうとうに通り越していることぐらい俺自身が一番良く知っている。教壇に立って、人の話を聞くという能力を少しも持とうと思わない連中に、切り刻まれた不恰好な古典の文句を繰り返し話してばかりいる年月が、俺のかつてのような無邪気な大将の座から引き摺り下ろしてしまっていることなど、聡以外のものならすぐにでもわかるだろう。
 そんなことを考えながら煙草の灰を灰皿に落としこんで顔を上げたとき、武がそれまでとはまったく違った眼で俺を見つめていることに気づいた。膝の上に乗せられた黒い鞠のようなものを撫でながら、奇妙な罪悪感のようなものに操られているかのように、俺の顔を見るたびに昔以上に情けなさそうな笑いを浮かべるとまた膝の上の鞠に集中する。どいつもこいつもそうなんだ。自分の掌の上のものだけがかわいいんだ。明らかに自分の論理がゆがんでいるのがわかりきっているだけに、ここで一区切りつけることが必要なんだ。俺はそう直感すると体をその直感に任せていた。
「畜生」 
 俺の手は自然とその鞠を叩き落としていた。幾何学文様が描かれた絨毯の上を手垢で黒くなった鞠がころころ転がっていき、壁の所で躊躇したように止まった。その中央に浮き上がる赤い線。かつての名残をとどめる赤い糸がまるであの鳥の口のように見える。今のもそれはあの忌まわしい叫びを発しそうに見える。俺は鞠を叩いたときと同じ中腰の姿勢のままその鞠をじっと見つめていた。
 武は何事も無かったかのようにゆっくりと立ち上がるとそのまま部屋を出て行った。俺は力尽きてそのままソファーに倒れこんだ。


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鳥のいる風景 8

 ようやく杉木立が切れようとするときだった。寺と神社の敷地をしきる大人の膝ほどの土塁の上、なにやら丸い塊が蠢いているのが目に飛び込んできた。それは右に左に軽くその体をゆすりながらこちらの様子を窺っているように見えた。
 あの鳥だ。そう直感すると同時に、俺の体は自然と二股に分かれた杉の木の陰に隠れていた。見れば見るほど、それは俺の意識を超越したように丸く大きく固まっていくように感じる。しかしそんなこととはお構い無しに鳥は静かに藪の中で地面をほじくり返してはしきりと何かを探しているようだった。俺は息を殺した。できるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹を掻き分けて土塁のそばの少し開けた窪地まで来た。鳥の姿はこちらから丸見えになった。大きく裂けた口を時々開くが、その中身は血にまみれたように赤く、それを見るたびに背筋が寒くなるような気がした。
 しかし、何より俺を驚かせたのはその眼だった。その眼は鳥の眼というよりも人間の眼に近かった。どこか悲しげでその眼と視線が合いそうになる度に俺はなぜかきまずい気分になって思わず眼を背けてなにも見えやしない杉木立の隙間からのぞく空を見つめた。空は昨日と変わらず、その前の日とも変わらず、薄い煙のような雲をあちこちに撒き散らかして俺の頭の上に広がっている。その一点の光、太陽は葉陰の間をすり抜けるようにして俺とこの鳥に同じように照り付けていた。俺はじっとそんな林の下の光景を見つめながら時がやってくるのをじっと待っていた。
 鳥がよたよたと倒木に向かって歩き始め、柔らかなおがくずに足を取られながら辺りを見まわせる位置まで来ると不意に俺のほうに眼を向けた。
 それが合図だったのかもしれない。俺は木の陰から飛び出しそいつを捕まえようと倒木めがけて突進した。鳥はのんびりと俺を待ち受けているように見えたが、俺がその手を伸ばせば届くというところまで来た時ひょいと向こう側へ飛び降りた。俺はそれを追って慣れないサンダルを脱ぎ捨ててその障害物を飛び越えた。
 鳩が二羽、その音に驚いて飛び出した。俺もまた眼を見張った。びっしり生えた苔の上、一つとして動くものも無く静まり返っている。もしあれほどの大きさのものが動き回っていたとすれば、痕跡はどこかに残っている筈なのだが、なめらかに光る苔にはどこにもその爪あとは見えやしない。俺は奴の隠れそうな穴ぼこや木の雨露を見つけようとしたが、五メートル向こうの杉の木はまるで電信柱のように滑らかな円柱をなしているだけでろくろく隠れる場所さえ見つからない。
 消えたのだろうか。俺の眼の錯覚だったのだろうか。表の方では先ほどまで気づかなかった杭を打つ槌の音やなにやら指示をして回る若い男の声が響き渡っている。その中に聡の声がいくつかはいっているのもよく判る。
 俺は自棄になって脱ぎ捨てたサンダルを手に持ったまま、もと来た道を引き返した。

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鳥のいる風景 7

「なんでそんなおどろいたかおするんだ。まあとかいもんのけんいちに、やまがみがすがたなんぞあらわすわけねえよ」 
 俺の見た物。山神、名前を与えられて安心するわけでもなく、むしろ名前を与えられたが故にその奇妙な生き物の陰が俺の頭の中で跳ね回りはじめる。
 俺が武のいる部屋を出る決心がついたのは時間とすれば五分くらいの間のことだったかもしれないが、俺には半日くらいの長さに感じられた。俺はそのまま部屋に閉じこもると、気だるい皺を浮かべるベッドへ転がった。
 目を向ける先、そこには天井があった。ベッドの上に乗って手を伸ばしたとしても、きっとそこには手が届かないだろう。こんな馬鹿げたことを考えるのは本当に久しぶりのことだ。それより先に物を考えると言うことすら久しくしていない気がする。テストの問題を選ぶのも、設問に多少ひねりを加えて生徒の青い顔を想像することも、すべては周りの同僚達の受け売りのプログラム、俺が特にその主体である必要なんて何も無い。
 しかしあの鳥を見て、そしてあの武に会った俺は天井に浮かんだ木目すらまるでなにかの意味を持って俺に語りかけてくるように見える。たぶん気のせいだ、いや俺が疲れていると言う証拠以外の何者でもない。少なくとも俺以外の人間がこうしてぼんやりと天井を見ている俺を見つければ、そう考えるだろう。俺もそのことを否定はしない。しかし、そんな他人のおしゃべりが今の俺にとって何になると言うのだ。確かに俺は鳥を見た。そして祖母のような従弟に出会い、こうして天井を見つめている。こういう在り方以外に俺はどうあれば良いと言うのだ。
 朝があった。人はどうだかしらないが、何一つとして新しさのない朝がそこにはあった。部屋を出て廊下を抜け応接間に出た。ぼんやりと居間のソファーに腰掛けて俺のほうを無言のまま見つめる聡の視線も昨日と何一つ変わることなくその怯えたような視線が俺の額の辺りをさまよっている。俺は奴のつまらなそうな瞳に嫌気が差したように部屋を出た。
 朝の田舎の空気は不健康なまでに重く水分を含んで俺の目の前に重くたちこめる霧となって現れた。その中を走り抜ける音はまるで水中で聞く泡の音のようににごったまま俺の頭の中を転げまわる。気のサンダルが玉砂利を掻き分ける音、養鶏場の鶏の声、辺りの森に潜むキジバトの雄叫び。その一つ一つの絡み合いの中、俺は真っ直ぐと長屋門の下をくぐりぬけた。
 通りは人々から見捨てられていた。放置された三輪トラックの荷台からセイタカアワダチソウが伸びている。道に切れ込んだクレバスの間にもその子供達がしつこくはびこっている。そして俺の足音が響く。俺だけのための道のように、その音は響く。かつて俺はこんな道をなにかに追われているような気になりながら必死になって走ったものだ。しかし、今はその追われる感覚などどこにも有りはしない。
 コールタールを塗りたくられた電柱の陰を抜け、地蔵を目印に切通しの小道に入り、そのまま道なりに小さな落花生畑に転がり込む。かつてはここまで線香のにおいがした墓地のはずれも、人影もなく、ただ腐りかけた卒塔婆だけがこの地の意味するところを知らせてくれている。俺はそのまま柔らかい地面を慎重に通り過ぎ、踏み固められた墓地の小道に入る。墓地の周辺、新しく作られた無意味に大きな墓の続く分譲地を抜け、みすぼらしい旧家の墓の続く本堂の裏手にでた。目の前に続く緩やかな瓦の坂は、最近葺き替えられたように見えて、朝日のにごった光を灰色に変換して俺の顔面にたたきつける。俺は急に気が変わって石造りの階段を下りるのをやめ、泥濘の目立つ杉木立の中の道へと進んだ。
 道はゆっくりと小さな丘の上にある寺から神社へと下っていた。子供の頃何度と無く歩いたこの道が、かなり荒れ果ててはいるもののまだ生きていることはうれしくもあり、悲しくもあった。昔のこと、取るに足りないつまらないことを考えながら歩いた。昔のように。土の感覚が冷たく、俺の意識を今の杉木立の中に送り返してくれるように。

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鳥のいる風景 6

 手を軽くぶらぶらさせて、ニコチンの切れ掛かった頭に軽い刺激を与えながらタバコを吸う場所を探している俺の目の前に妙な人影があった。それが先ほどの武であると分かるだけに、それが祖母の真似をしているとわかる武だけに、それはいっそう奇妙に見えた。
 便所から出てきたようで、水の滴る手を薄汚いジャージでいかにも面倒そうに拭いながら軽く右を向き左を向く。そのあいだ、何回か俺の姿は視界に入った筈なのだが、まるで見えていないかのようにゆっくり伸びをすると伸びていた背筋を緩やかに丸め、下を向き、上を向き、正面を向き、もう一度上を向き、そしてジャージのズボンに引っ掛けてあるタオルで申し訳程度に手を拭いてそのまま廊下を奥の部屋に向けて歩き始めた。その姿は、ちょうど今くらいの時間、祖母がしていたことと寸分たがわぬ動作だった。違うことと言えば、その足元が年の分だけしっかりしているくらいのものだろう。もしこの姿を知らない人が見たならば、それが二十八の青年であることなどきっと気づかないほどにその動作は衰えていた。
 俺はその姿を見ただけで、少しばかり重荷になっていた尿意も消え去り、奥にある和室へと、かつて祖母が使っていたその部屋へと、今まさに武が消えていった引き戸の中へとその意識を集中させていった。無理に押し曲げられた腰、作り物じみた頭は必死になって引き戸の取っ手を探している振りをしている。長年狂気を装う技術ばかり磨いている生徒達を相手にしているうちに見につけた勘が武の行動を解体して、俺の手の上に広げて見せた。そして俺はその後姿に付き従って、部屋の中へと入り込んだ。
 武は驚く風でもなく俺を迎え入れた。部屋の中は祖母が生きていたときそのままに、少し古びた箪笥も、経文の置かれた文机も、磨き上げられた仏壇も、残忍な夏の日差しから隠されたまま静かに佇んでいた。
「けん・・・いち」 
 呼びかけているのか、自分の心の中で確認しているのか。どちらかと言えば後者のような気がしてならない。文机の前に置かれた座布団に何気なく腰掛けている武は、部屋に入る時のあの衰えた目つきで俺を見つめた。俺は黙ってその前に腰を下ろすと、ぞんざいに胡坐をかいた。武は黙ったまま俺を見つめ、俺も口を開くことを忘れて奴の有様を観察した。物まねとしてはなかなか大したものだ。しかし、いったい何のためにそんな行動をとるのか。俺はそのわけを知っているのかもしれないが、俺の心の表面にある何かが、それを口に出すことを意地になって妨害しているようで、俺は結論を口にできないままでいた。
「けんいちよ。おめえ・・・よく来たな」 
 無理につくられたしわがれ声が、重く心のそこに響いているように感じる。
「ああ、帰ってきたよ。夏休みがあるのは教師の特権だからな。それにしても武・・・」 
 武は俺の言葉をさえぎるように手を翳すと、何気なく首を左右に振り言葉を捜すように天井を見つめた。俺も釣られてその天井をみつめた。何百年という年月に燻された天井には黒いシミが丸く浮きあがって見える。俺の背中に寒気が走り始めた。それは背中から脳髄へと回り、顔の表面に奇妙な愛想笑いを形作るとそのままそこに張り付くことを決めたようだ。
「なんかつかれてんのか、ここととうきょうはきょりがあるかんな。かおがあおいぞ。まるでやまがみにでもあったみてえだぞ」 
 久しぶりに聞く言葉に、俺は昔話の一節を思い出した。昔、祖母が東京の家に帰るのを嫌がる俺に向かって何度と無くした山神の話。手が二十本ある大猿、尻尾が九本ある狸、首が七本ある熊。話す度に姿を変えていく化け物は、ませた俺には理解の外にある迷信でしかなかった。むしろその後に続く、出会った者の味わう地獄のような苦しみの物語の方が、まるでワイドショーのゴシップを聞くような不愉快な気分に俺を陥れたことだけが、俺の記憶の中に残っている。
 俺の目の前にいる武も、きっと同じような話を聞かされたことだろう。恐怖に慄く口元は、その観察の結果だろうか。そんな皮肉な感覚が、引き延ばされていく沈黙の中で次第にかつて祖母が本気で味わったであろう恐怖の渦の中に引き込まれていくようになったのは、もう一度あの奇妙な叫び声が響き渡ったせいかもしれない。俺は思わず立ち上がって左右を見渡し、そのような声が聞こえるはずもないことを確認した後、今度こそ武の言うことを聞き逃すまいと思って、今度は正座をして奴の前に座りなおした。

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テーマ : ファンタジー小説
ジャンル : 小説・文学

鳥のいる風景 5

「ほら、武が座っているよ」 
 サイドブレーキを引きながら聡がさりげなく言う。見れば縁側に一人、若い男が所在無げに座ってお茶を飲んでいる。若さと言うものを感じさせないほどにやつれ果てていることを除けば、あれは確かに武以外の何者でもなかった。かつて祖母がそうしていたように、車から降りる俺を軽く一瞥して、頭を下げて申し訳程度の笑顔を浮かべると、また自分の前に置いてある湯飲みをまじまじと見つめ、何事も起こらなかったかのようにそれを啜った。
「いつもああなのか、武の奴」 
「武の奴、お婆ちゃん子だったから。帰ってきてから、いつだってあんな感じで座って、周りの人が何を言っても知らないふりをしているんだ。まあ、大人しくしていてくれるだけ、こっちも助かるけどね」 
 そう言って笑う聡の表情に尋常ならざるものを感じながら、俺は聡の差し出す荷物を受け取ると引き戸を開けて家に上がりこんだ。
 家の中は閑散としていた。たぶん昔のこの家の有様を知っているだけにそう思えるのだろう。玄関に置かれた鷹の剥製。かつてこれは武の悪戯の格好の標的だった。俺が最後に見た時には、紫色の鉢巻と、おもちゃのサングラスが取り付けられていたが、今ではただ聡の虚栄の象徴以外の何の意味も持っていないようだった。真っ直ぐに延びる廊下も、塵一つなく、壁一面に貼り付けられていた車とバイクのポスターもすべて剥がされたばかりでなく、画鋲の跡までみごとに消えていた。
 そして何よりも、家中あくまで静まり返っていることが妙に不自然に感じられた。かつてなら三番目のドアの向こうから、不必要な音量で流れていた筈のロックのビートも聞こえない。聡はまさにその扉の前に来たところで俺を追い抜き、ドアを軽く押し開けた。
「ここを使ってくれ。しばらく使ってなかったから汚いかもしれないけど、まあ自由にしていいから」 
 そう言った聡の言葉が自信を持っているように感じられたので、俺はすばやくその部屋の中に入り込んで、聡が入り込む前にドアを思い切り閉めた。
 抜け殻のように閑散としているはずの部屋が、不思議に息苦しく狭苦しく見える。壁はすっかり塗り替えられ、ありふれた応接セットと巨大なベッドが置かれたその部屋も、俺にしてみればきわめて場違いで不釣合いなものに感じられた。あの武が使っていた頃の垢抜けた野生というものはそこには微塵も残ってはいなかった。
 ドアが開いて、若い女が入ってきた。真っ直ぐにテーブルのところまで来て頭を軽く下げ、盆の上の茶をそっと置いた時、初めてそれが今の聡の妻となった真由美だとわかって少しばかり気恥ずかしく思った。俺が三十三だからもう三十になるわけだ。昔と比べると少し痩せたように見えるが、細く切れ込んだ眦と、その意志の強さとやさしさを無理もなく表現してみせる口元は少しも変わることはなく、俺が「若い女」と思い込んだのも無理もないようにそのきめの細かい肌は蒸し暑い空気の中、淡く反射しながら俺の視界の奥底にある甘い思い出を緩やかに解凍し始めた。
「そんな気を使わなくてもいいよ、それほど長くいるわけにはいかないけど。それとこれがお土産、時間がなかったから地元の駅で買ったんだけど、見本を見たら、こいつがなかなかうまそうに見えたから・・・」 
「そうですか・・・、それはまた結構な物を・・・」 
 馬鹿話をして間を持たそうとする俺の安っぽい視線が真由美の黒い瞳と初めてであったとき、まるで下女でも見るような突き放された気分だけがそこに残っていた。彼女は俺の手にあるカステラの入った箱を持つと、入ってきた時と同じように音もたてずに木目調のドアに消えていった。俺はそのまま用意されていた馬鹿話を飲み込みつつ荷物を部屋の隅に押しのけた。
 久しぶりの墓参りがこんなことになるとは思わなかっただけに、俺は少なからず動揺する自分をあざ笑ってみた。狭苦しい部屋に一人で座っていることは今の俺にとって、あの駅を降りてからの俺にとって、また、あの奇妙な鳥を見た後の俺にとっては苦痛以外の何者でもない。俺はドアを開け、廊下をゆっくりと下り、裏口の通路まで来た。

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テーマ : SF(少し不思議)自作小説
ジャンル : 小説・文学

鳥のいる風景 4

 それはまるで団子かなにかのように大木に開かれた深淵の中に供えられていた。俺の足音に驚いたのか軽くその身を震わせたとき、俺は狸かなにかが木の中で眠っているのかと思って、足を忍ばせ近づいてみた。そいつはその気配を察してはいるがどうしたのもかと思案しているのか、同じ様な調子で体を揺すりながらじっとその場に蹲っていた。近づくに従って、その洞穴に住む毛玉の黒褐色の光が獣の毛皮の光とは違う何処かしら乾燥した雰囲気をたたえていることに気付いて俺は足を止めた。俺は何気なく近づく速度を速めた。まさにその時だった。
 その毛玉の中央部が真っ二つに裂け、その中央に真っ赤な口が開かれた。人面鳥(ハーピー)の叫びにも似た背筋の凍るような叫び声が俺の耳に向かって突進してきた。俺はそのまま足を滑らせ、ふくらはぎを木の根に嫌と言うほど打ち付けた。その音に気をよくしたようにもう一度、その悲鳴は俺の耳元を掠めて後ろの森へとばら撒かれ、鳥は勢いにまかせて洞穴から転がり落ちる。逃げるのか、俺を誘っているのか、判断に迷うような足どりでそいつは草むらに消えていこうとする。俺はその後をつけようと足に力を入れるのだが、踏ん張った調子に靴の踵が木の根の間に挟まっている事に気付いてようやく思いとどまる。
 そいつは聖域の果てまで来て何を思ったのか一度だけこちらを振り向いた。
 視線が合った。なぜかそう感じたのは、それまで気がつかづにいたがま口の上の澄んだ目を見つけたせいかもしれない。それはこれまで見たどんな人間の目とも違う、それだけはその時にははっきりとわかるような目だった。人を動物の位置まで引き釣り降ろすような目としか表現のしようが無い。ほんの数秒の間のことだったろう、しかし、その間俺は動く事もままならず、思いもかけない不気味な生き物の登場に気が動転しているにもかかわらず、じっとその目を見つめてそらすことはなかった。
 一声、あの耳を切り裂くような叫び声を上げると鳥は木の陰を縫うように消えた。ようやく気付いたように、俺はその消え去った草むらに目をやったが、何処に行ったものか、草一つ動くことも無く、生き物の気配と呼べるようなものはみじんも残っていなかった。諦めて俺は車の方に向かって歩き出した。
 車のそばまで来て軽くあたりを見回すと、相変わらず聡がご神体の前に座ってなにやら一心にその前に積み上げられた小石をいじくっている有様が目に入った。俺は無言で車の中に乗り込んで、わざと聞こえるような大きな音をたててドアを閉めた。その音に驚いたかのように急に飛び上がる聡を少し滑稽に思いながら、何事も無かったような表情を作って、目を丸くして俺を見つめて来る聡の濁った目を冷たく見返してやった。聡はそんな俺の目にあわせるかのように情けなさそうな笑いを浮かべながら車に乗り込んだ。黙りこんでいる俺を聡は不思議そうに見つめている。昔なら俺の蹴りが後頭部に飛んでもおかしくない。きっとそんなことを考えているのだろう。
 車は狭い広場をゆっくりと一回転するとまたあのガタガタ道へと入り込んだ。たまに俺がバックミラーを覗こうとすると、聡の恐怖に歪んだ目が視線から消えていくようなことが何度と無くあった。そうしてだらだら坂も終わり、右手に初めてタバコ屋が視界に入ってきた。道は林道のときよりもさらに細くなり、さらにあちらこちらに止められた軽トラックのために何度と無く俺の乗った大型車の車体が大きく傾くようになった。そしてその傾く頻度が多くなるにつれて、背中にまで浮かんでいた聡の俺に対する恐怖心が少しづつ和らいでいくのがわかった。そして俺も、少しづつこのありふれた田舎の空気に体が慣れてきたのか、次第次第に昔の俺のように珍しげに朽ちかけた土蔵の白壁や、その隣にそびえる二階建てのコンクリートの住宅や、派手に塗装されたバンの後ろに貼り付けられた人気歌手のステッカーと言ったものを眺めるだけの余裕が生まれてきた。
 そんな俺の視線も、大きな長屋門をくぐったところでようやく現実世界に引きずり下ろされた。隣の養鶏場から響いてくる悲しいほどに滑稽な雌鳥の声、アメリカシロヒトリの巣を幾つと無く釣り下げた桜の木、何一つ変わることの無い俺の親父の生家。

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テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

鳥のいる風景 3

「あいつなら・・・、この前ひょっこり帰ってきたよ。何かずいぶん苦労したみたいで・・・、まあしかたないかもしれないけど。態度も物腰もずいぶん変わって、昔は僕の事兄貴だと思っていないような・・・、そんな奴だったけど、大人しく、かなり大人しくなったね。昔からガキのような奴だったからね。まあ世の中見て、世の中がどういうものだかよく見てきて、一皮むけた、たぶんそんなところだろうね」 
 途切れ途切れにつぶやく、口元に浮かぶ微笑が、俺を昔の記憶の中にたたき落とした。いつも人の不幸を笑う時に奴が愛用したその表情。得意げに話す口元から、時折その笑みがこぼれる。俺はバックミラーに魅入られた視線を無理やり引き剥がした。車は平地を抜け、森に包まれた林道に入った。聡は手元のボタンを操作して窓ガラスを閉めた。エアコンの吹き出し口から熱風が顔面めがけて吹きつけてくる。体は少しでも涼しい空気を求めて全身の毛根から粘り気のある汗を吹き上げる。さらに悪い事に車内に滞留していた砂がこびり付いて人の神経を苛立たせる。俺は胸のポケットに手をやってタバコのあることを確認し、ようやく気を落ち着ける。
「後、少しするとクーラー効きはじめると思うよ。夏だからね、何しろ。まあ、暑いけど、それまではどうにか我慢してくれよ」 
 聡が申し訳なさそうに言ったのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなんだろう。先程の饒舌は影を潜め、聡は真正面を向いて運転に集中している。相変わらず悪い道が続いている。俺はどうする事もできずに車に揺られて外を見ていた。俺の目に映るのは風景といえないような風景、意識もぼんやりとして見るという行為をする事だけに集中している。
 日差しが絶え、次第に効きはじめるクーラーの冷気に心地よい疲労感。俺は全身の力が次第に抜けていくのがわかった。森の中の緩やかな坂道が与えてくれる衝撃、聡の子守唄のような独り言。しかしなぜだろう、そういう時に限ってきまぐれな日差しが俺の顔面をひっぱたき、眠りは自然に遠くへと去っていく。残された俺はバックミラー越しに心配そうに俺を見守る聡の濁った目玉を見つめながら咳払いをしてどうにかその場を取り繕う。
「疲れているのか。高校の先生って、結構大変だって言うね。最近じゃあ予備校の真似みたいに特設授業とか、健一のところは確か進学校だから・・・」 
「馬鹿だな。俺がそんなこと真面目にするわけねえじゃないか。四時間も列車に乗れば疲れもするし眠くもなるよ」 
 いつもの受け答え、慣れた唇はいつもと同じ調子でいつもと同じ台詞を並べる。聡はハンドルを切って未舗装の小道に車を乗り入れた。前輪が軽く跳ね上がり、タイヤが小石を撒き散らす音が足元に響き渡る。その嫌味な木々の続く林を走る車のエンジン音が次第に遠慮がちになり、我が物顔でのさばっていた下草が力を失い、目の前に小さな広場を見つけたところで聡はエンジンを切った。しかし目の前には大人一人で持ち上げるには少し大きすぎると言った程度の石に注連縄を巻いた程度のご神体らしきものがあるだけで、これから始まるこの地方唯一の祭りの始まりを示すようなものは何一つ無かった。俺は何気なくドアを押し開け、軽く伸びをすると肌に絡みつく粘り気を含んだ風に顔をしかめて見せた。そして、車から降りたもののいかにも自信なげに車のドアのそばで立ちすくんでいる聡に向かってわざとらしく微笑んで見せた。
「いや・・・、確かにここでいいはずなんだよ。前に案内してもらったときもちゃんとあの石が正面にあったし、周りの下草だって青年団の連中に刈らせてこれだけきれいにしてあるんだから・・・、そうだ、それに確かここでやるのは最後のなんとかっていう儀式だけで、それにはうちの人間と神社の連中しかでないはずだからこれだけの広さがあればどうにかなる筈だと思うよ」 
「筈だ、筈だってお前の土地なんだろここら辺一体は、それにしちゃあ随分自信なさそうに言うじゃないか。テメエが仕切ってるんだからもう少しははっきりと・・・」 
 そんな俺の話を無視するように聡はまっすぐにご神体に向かって歩き始めた。そしてその三メートルほど手前の所に立って中腰になり、なにやら観察を始めた。首を左右に捻り、手を軽く拡げて見せ、何度かまるで写真の構図を決めるときのようなポーズを取った後、もう一度立ち上がって軽く左右に歩き回る。俺は俺でこの人工的な聖域の有様を観察すべく、限りなく続くブナの林に足を踏み入れた。この広場の周囲二十メートル程までは完全に草と言う草は刈られ、貪欲に張り巡らされた巨木達の根が或いは絡み、或いは突き出し、「聖域」の周辺部を廻ろうとしている俺の行く手を遮ってみせる。そのため俺は、彼らの自慢の枝ぶりなんぞに目を奪われることもなく、淡々と歩く事ができた。そして一際大きな欅の木の雨露が目に入ったとき、なにやらその中に動くものを見つける事ができたのも、きっとそんな事が原因していたのかもしれない。

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テーマ : 文学・小説
ジャンル : 小説・文学

鳥のいる風景 2

「お客さん、何か待ってらっしゃるんですか」 
 マスクをしていない方の駅員が後ろからそう訊ねる。二人は相変わらずお互いに牽制をしながら突っ立っている。
「いや、たぶんバスぐらいあるかと思ってね。十年前に来た時は確か走っていたような・・・」 
「いやだな、お客さん。この駅にバスが走っていたことはただの一度もありませんよ。少なくともあたし達がこの駅の駅員になってから近くの小学校の遠足のためのバスが止まるくらいでそんな路線バスなんか一度だって来た事はないですよ」 
 俺はその奇妙なほどに親切ぶった視線を逃れるべく残忍な日差しの照りつける広場に出た。二人は一度戸惑ったようにお互いの顔を見合わせたままその場に突っ立っていた。
 照りつける日差しにどうにも耐えられなくなって日陰に後ずさりを始めたとき、駅前のロータリーに一台の黒い大型車が止まった。俺は一人、公衆電話すらない駅の改札の前でこの暑さにはふさわしくない深紅のネクタイを締めた男をぼんやりと見つめていた。ちらちらと俺のほうを見つめ、軽く右足を踏み出して俺のほうに向かおうとするが、少し気が変わったと言う様に一度首を傾げて、そのまま立ち止まる。かつて俺を同じようにして迎えた事が何度と無くあった時そのままに目を伏せてようやく決心がついたかのようにして向かってくる。変わらない七三わけの脂ぎった髪の下にある顔が、少しだけ昔より太っているように見えた。
「いやあ、待たせたね」 
 相変わらず消え入るような小さな声、そのくせ語感は一つ一つはっきりとしている。決して俺と視線を合わせようとはせず、ただうつむいたまま俺がゆっくりと車に向かって歩き始めるのを待っている。
「荷物、持とうか」 
 俺は一語一語、間違えることを恐れるかのようにゆっくりと話す聡に、俺は持ってきた荷物を差し出した。奴はようやく安心したようにそれまでの不安げな足どりが少しだけ軽快になっているように見えた。聡は車のトランクを開け、まるで貴重品でも扱うように丁寧に俺の荷物をその中に入れる。俺はオートロックによって解除された後部座席のドアーを開き、昔のように無造作に座る。
「一応、禁煙だから・・・」 
 遠慮がちにそう呟いて聡は運転席に座った。俺は取り出しかけた煙草を胸のポケットにしまうと開け放たれた窓から顔を出して生暖かい風を思い切り吸い込んでは吐き出した。
「さっき、健一が話してたの・・・、あの二人、双子なんだよ」 
 俺は何気なく頷いた。気の利いたことを言ったつもりが、とうに見透かされていたことを恥じるように、聡はかつての卑屈な笑い声をもらして道なりにハンドルを切った。道は舗装されてはいるものの、予算が足りないのか、路面はかなりの部分がひび割れていて、時折、タイヤが大きめの石を踏みつけるたびに前輪が軽く跳ね上がる。俺は振動を受けるたびに足を踏ん張って自分の体を支えていた。左右に広がる畑には生える草も無く、表面の砂が弱々しく山から吹き降ろす風と車の起こす衝撃波によって巻き上げられ、開け放たれた窓ガラスから入り込んでくる。
「名札を見たから知っていると思うけど、さっきの双子は鈴木っていう苗字で、兄貴が亮二、弟が敬一っていうんだ」 
 名札を見ていなかった俺はそのまま黙って空を見上げていた。七月末、悪意のこもった夏の日差しが、汗をかくのをやめた俺の肌を咎めるように突き刺さってくる。聡にも同じように日差しは照りつけているはずだというのに、奴はまるで真冬の冷気に耐えているかのように首をすぼめ、ハンドルに覆いかぶさるようにして車を走らせていく。
「そういえば武はどうしたんだ。高校出てすぐ家出したって聞いたけど、あれから何も言ってこないのか」 
 ふと無意識にこぼれ出た言葉が、妙に厭らしい香りを持って俺の口の中で反響する。聡の丸められていた背中が一瞬垂直に伸び、バックミラーに曇りきった奴の目玉が落ち着きも無くさまよっている様が映し出される。俺は少しばかり後悔しながら、それでもかすかに残った好奇心を顔一杯に引き延ばして、奴の一見冷酷そうにも見える薄すぎる唇からこぼれだすであろう言葉を待ち受けた。

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テーマ : ファンタジー小説
ジャンル : 小説・文学

鳥のいる風景 1

 各駅停車のディーゼルカーのたてる憂鬱なエンジン音が昨日から続く夢から俺は弾き跳ばして、硬すぎる座席の上に叩きつけた。窓の外には汚らしいくらいに茂り続ける広葉樹の森。視界は開けたり無くなったり、下のほうに光ってみせるのは地図で見たY川の水面だろうか。
 昼下がりののんびりとした空気の中、誰もが思い思いにゆっくりと流れる空気の中に佇んでいる。向かいの七人掛けのロングシートには、等間隔に四人の客が座っている。
 一番右端、丁度俺の正面に座っている女子高生。ときどき目が合うたびに、まるで汚いものにでも出会ったかのように顔をしかめてみせる。その隣には小豆色のふろしきに包んだ、自分の胸のあたりにまで積み重ねられた荷物を座席の前に置いて、首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭っている老婆。それも一段落すると、駅のゴミ箱から拾ってきたようなしわくちゃのスポーツ新聞を広げて芸能欄ばかりを飽きることなく読み続ける。左端には平和そうな山歩きの二人。お互いに相手を意識したように真正面を向いて視線を固定している。
 もう一度、外の変わる事の無い景色に目を移した。相変わらず外を流れる木の葉の群れはどれもこれも申し合わせたように鈍い緑色の光を俺の顔に向かって反射しながら俺の行く先の風景をわざと遮ってみせる。列車はその合間を蛇行しながら黙々と山中へと分け入ってくる。腕時計を見る。もう少しで駅に着くようで、列車は減速しながら窪地のようなところを進んでいく。ほったて小屋のような家のそばではいつ倒れてもおかしくないような老人がトラクターの修理をしている。
 ディーゼルカーは、木造の駅舎の手前で気持ち悪そうに体を震わせながら停止した。俺が立ち上がっても車内の乗客は一人として反応を示さない。まるでここには駅などという物は存在しないとでも言うように、彼らは無関心を装い続けている。
 半自動のドアを引き開け、砂利の敷き詰められたホームに降り立った。車掌は俺と視線を合わせるのを拒むかのように、上目遣いに電柱に引っ掛けてあるタブレットを手に持つとそのまま車内へ引っ込んだ。ディーゼルカーがまた鈍いうなり声を上げて動き始め、車体の下から黒い排気ガスと、息苦しい熱気が俺の顔面を嘗め回しに来た。俺はその煙を避けるべくトタン葺の古めかしい屋根に入った。
 ポケットから切符とハンカチを取り出し、右手に持ったハンカチで額の汗を拭いながら時代物の駅舎に填められた木の枠を持つ窓のほうを見つめた。中には二人の駅員がこのように客も降りない駅だというのに、いかにも忙しそうに立ち働いていた。一方は風邪でもひいているのか、口のところにマスクをしている。
 そのうちの一人、マスクをしていない方の駅員が、雑巾を持ったまま窓枠の方に顔を向けたとき、ようやく珍しい降車客を見つけたのか、マスクをしている方の駅員の肩を叩くと手にした雑巾を放り投げてそのまま奥の部屋へと消えていった。もう一人は机に張り付いたまま俺のことを無視しているように帳面に張り付いている。俺はとりあえず改札口に行こうと駅舎を横手に見ながら歩き始めた。
 寂れきった駅前の風景を見ながら改札口に行くと、いつの間にやってきたのか二人の駅員が先を争うようにして改札口に立とうとしている。二人ともその定位置を確保することに一生懸命で、俺のほうは眼中にないと言ったような感じで俺は改札口の手前で立ち往生してしまった。
「困るなあ、それじゃあ通れないんだけど」 
 俺のこの言葉が聞こえたのか急に争うのを止めて、一番俺に近かったマスクをしている方が切符を受け取り、俺はようやく改札口をでることができた。
 売店すらない待合室を抜けて駅前に出た。そこは丸いロータリーのようになっているだけで、その近くに店のようなものは何もない。ただ、かつて店であったと言うような建物が、分厚い扉を閉めたままさもそれが当然のような顔をして立っている。

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テーマ : SF(少し不思議)自作小説
ジャンル : 小説・文学

月 5

 視線の中の坊主の指先が天を指さしていることに気付いた。左手で笠を持ち上げてまるで月かなにかを見上げているみたいに・・・、そうだ月だ。俺は最後の力を振り絞ってビルの谷間の狭い空を見上げた。
 雲一つ無く晴れ上がった空に、ただ、月が一つ、他の星の光の恨みを晴らすかのように、おぼろに輝いてみせる。いつもならその光をかすめとって化粧してみせるスモッグの粒子も、この強い風に洗い流され、ただ真円をなす黄色い円盤がその自己顕示欲の強さを人が呆れるのもかまわずに黄色い光を垂れ流し続けていた。
 だからなんだって言うんだ。
 一人のコートを着た女。俺の前を相変わらず俺に軽蔑の視線を浴びせながら通り過ぎようとする。俺から三メートルくらいの距離を正確に取りながら俺を避けて通ろうというのだろう。女が俺と噴水の中間点に立ったときだった。俺の懐から十円玉がこぼれ落ちた。かつて、俺が酒屋の親父のごつい作りの手から受け取ったぴかぴか光っていた十円玉。今では俺と同じく、黒いシミを浮かべた十円玉がころころと俺の膝を伝って、コンクリートの上に滑り落ちた。
 その軽薄な響きが俺の右耳から左耳へ通り過ぎるのと女の膝まであるブーツの上の辺りが不自然な曲がり方をしたのはほぼ同時に見えた。女はそのまま気でも失ったようにガクリと膝を折って大地に突っ伏した。
 女の身体はまるでガラス細工か何かのように大地に当たって粉々に砕け散っていた。それが合図だったのだろうか、公園一杯の人影が次々とまるで機関銃の掃射でも受けたみたいにして、大地に倒れこみ始めた。彼らは地面にいとおしそうに接吻を済ませると粉々になって土に帰っていった。コートの袖を意味ありげに引っ張り上げながら信号を待っていた四十そこそこの眼鏡のサラリーマンも、革ジャンの襟から赤いTシャツをはみ出させながら小走りに走り抜けようとしていた大学生も、浮ついた笑いで寒さを紛らわしながら会社の噂話に花を咲かせていたOLも、膝から、踝から、腕から。透明な粉を撒き散らしながら時を惜しむように次々と壊れていった。
 人間が一通り崩れ終わった時、崩壊は物へと伝染し始めた。ビルも、車も、街灯も、電柱も。俺の視界の中のありとあらゆるものが、ガラスの割れるような耳障りな音を立てて、一つ一つ丁寧に形を失っていく。俺の目の前の噴水も、一瞬凍てついたように見えた後、ビルとその崩れる早さを競っているかのように粉々に砕け散った。
 視界にあったものが砕け終わった後、不意に肩が軽くなったような感じがしたので足元を見下ろしてみると、新聞紙の破片が文字を中心としてジグソーパズルの破片のように崩れて行くところだった。シミだらけのジャケットが緩やかな風に吹かれてその姿を失っていく。どうやら俺って奴も砕け散ってしまったらしい。その隣の砂山はきっとそんな残骸だ。
 俺はぼんやりと周りを眺めてみた。あたり一面何も無い地平線だ。軽く目を動かすようにして視界を動かしてみた、奇妙なもので、肉体などというものが失われたというのに、俺にはその時の感覚が抜けきっていないようで、丁度百二十度の視界の中ただ緩やかに弧を描いている地平線を見ると、なぜか妙に走り出したいような気になってくる。
 しかし、俺はそんな衝動を押さえつけるとゆっくりと月へと浮き上がっていった。月は月で、相変わらず、にやけた光を何も無い地上にぶちまけ続けていた。

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テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

月 4

 目の前に立ちふさがる黒い壁。堤防の影に饅頭笠が吸い込まれた。俺は不安になって街灯の下に乞食坊主の姿を探した。どこに隠れたのか、人影はおろか猫の子一匹見当たらない。そのまますることもなく歩き回っているうちに進入禁止の道路標識の影、堤防に登る階段を見つけた。月の光は黒い筋を浮き上がらせ、堤防を登る階段に俺を誘う。きっとこの階段を使ったのだろう。俺はそう直感して、勢いに任せて急な堤防の階段を駆け上がった。堤防の上は湿った海からの風が絶えることなく吹き続けている。川原に広がる運動場の周りに生える葦がそれになびいて俺に頭を下げる。緩やかに続く堤防の勾配を下り、そのまま運動場の上を歩いた。こんなもの何の為にあるのだろう、少なくともこうして酔い覚ましの散歩の為にあるわけじゃないだろう。月の光に照らされた水面が、蛍光灯の破片のように細かく危うい光を俺に向かって浴びせかけてくる。
 そんな光を避けるように思わず天を仰いだ。見ると言うわけでもなく頭の上に輝く無様なほどに丸い月が目に入ってきた。何だってこんなに丸いんだろう?何だってこんなに光っているんだろう?死に掛けた街の残りかすのような光にかすんだ星達の恨みを晴らすかのように、鼻の頭に現れた笑いが顔から腹へ瞬時に伝わっていくのを感じた。そのまま転げまわって笑えたとしたらどんなにか気持ちの晴れることだろう。
 急に気が楽になって俺はどこかの暇人が堤防の上に等間隔で並べた空き缶を一つ一つ見苦しいほどに透明な光を放つ川に向かって蹴りこんだ。アルミでできた軟弱な缶はどれもこれも人を呆れさせるような間の抜けた音を立てると放物線を描きながら、散り散りになった月の光の中に消えていった。
 そして、最後に透明なガラス瓶を蹴ったときだった。それまでの感覚を一瞬失ったように、俺の足はその瓶の口を叩くにとどまり、瓶は真下に転がって砕ける。目標を失った足は水分の多い空間を切り裂き、俺の股関節を何者も存在しない空間へと引きずれ込まれていった。腰骨に軽い痛みが走り、荒く風化したコンクリートに体が叩きつけられたことが判る。軽く手足を動かして俺は重力への無駄な抵抗をする。しかしそれが一体何になるのだろうか。俺の体は黒く輝く水面に吸い込まれていた。
 粘り気のある水。体に絡み付いてくるその触手は別に俺をその奥へ引きずり込むつもりなど毛頭ないようで、俺の左足がさび付いた感触をした鉄の梯子に引っかかる。頭からは水が滴り落ちる。そう簡単に人間が死ねるものか、思わず零れ落ちた苦笑いで水面に目玉の形の波紋が浮き上がった。目玉の形は果てしなく続き、今でもこうして俺の周りに広がっている。目の前を歩く二人連れが俺を指差して、不快そうな顔をして足早に通り過ぎる。あの時以来、俺の右腕はろくに動きもしない。襤褸屑と大して違いのないようなジャケットに浮かび上がるシミ、あの川の水の染み付いた靴下。俺はこうしてここにいる。そして俺の目の前は商店街に置かれたビデオカメラのように移り変わる広場の風景をただ映し出している。
 噴水の影の黒い固まり。あれは一体何なんだろう。急に不安になって目を凝らそうとする。人のようにも見えるその固まりの姿をゆっくりとなぞっているうちに、それが笠のようなものを被っているのが判ってきた。あの手に持っている杖のようなものは錫杖だろうか。
 急にその笠が持ち上げられ、丸い顔が俺の目にも見えるようになった。よく見えないがあの鈍く光る目は、影でわからないが潰れかけた鼻は、髭に隠れてはいるがあの開かれた口は、俺の頭の中の部品が一つ一つあるべき場所を手に入れて、喜びに沸き立っているのが判る。だからといって俺に何ができるんだろう。俺はもはや歩く事すらできやしない。なにかを投げつけようにも、俺の腹の上の新聞紙が俺の全財産だ。せめてこうして睨み返すことくらいしか・・・、俺はそのとき初めて坊主の顔を顔として眺めた。街灯の光が笠で遮られているせいが、やたらと色黒に見えるがたぶんその黒さの相当部分は肌の上に積もった垢のなせる業だろう。時折、頭や背中を左右両手を使って掻きまくっているのが何よりの証拠だ。
 襤褸雑巾のように、何一つ身構えているようには見えないその姿が、なぜこれ程までに俺には美しく見えるのであろうか。そう思った瞬間だった。

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テーマ : 自作小説(ファンタジー)
ジャンル : 小説・文学

月 3

 無口な店の主人は何も言わずに肉じゃがを一つ付けてくれた。俺は肉じゃがを突きながら黙って酒をあおった。後ろでは何事も無かったように饗宴が再開された。俺は時を忘れる為に杯を進めた。
「佐々木さん。済まないね、看板にさせてもらうよ」 
 親父が肩を叩いたのは大学生が店を出たことすら忘れたような頃だった。俺はポケットから、夕方最後に俺の勤めている店で手にした給料の入った袋を取り出した。二千二百七十円、店の勘定は千五十円。残りは千二十円。ふらつく足を大地に突き立てながらようやく平衡を保つ俺の身体は、自然と駅のほうへと向かっていた。
 終電の終わった駅のホームには酔っ払いの影すらなく、不気味な薄笑いを浮かべながら沈黙していた。俺はシャッターの閉まった駅の改札口を横目で見ながら、線路の下を潜り抜け、煌々と明かりのついた交番の前を通り、自動販売機の前にやって来ていた。ズボンのポケットからさっきのお釣りを取り出して、手の上で転がしてみる。それにしてもなんて軽いんだろう。郵便局にはもう少し金があるはずだが、そんなことはあてにならない。今の俺にとってはこの金が重要なんだ。そういえば似たような事がドストエフスキーの小説にもあった気がする。まあ、もう少しましな台詞だったような気がするが。
 俺は手の上の小銭を投入口に差し込んだ。軽薄な音を立てながら、俺の手から機械の中へと小銭は消えていった。気味の悪い赤い光に魅入られた俺の人差し指がゆっくりとコーヒーのボタンを選んで押した。無様な音を立てて転がってくる缶コーヒーを腰を曲げて右手で握りしめ、その熱さに驚きながら、ハンカチでくるみなおして持ち上げ、左手で熱さを気にしながらプルタブを引き上げる。おもむろに飲み込んだ熱い液体は俺の口ばかりでなく頬までも流れ下ることを嫌わないようだった。俺は手にかかったコーヒーを何の気なしに皺だらけのズボンで拭いながら、道路につきあってまっすぐ整列している電柱にくくりつけられたやる気の無い街灯の光の線を見つめ、この先はたしか川に続いていたはずだと言う事を考えていた。
 夕方だったらさぞ人通りも多い事だろう、取り残された放置自転車の群れが昼の喧騒を暗示している。街灯の下には、まるで条例で決められているかのように異臭をはなつ白い吐捨物が光に晒されて浮き上がって見える。本屋の隣、スナックの看板の隣、花屋の隣、吐捨物の点線はいつまでと無く続いていた。俺は次こそは俺の胃の中を整理してみようと口に指を突っ込んだまま、白い吐捨物を目印に緩やかに下っていく道を歩き続けた。
 細い小道の影、数え始めて十三個目の白い円盤が眼に入ったとき、その位置が少しおかしいことを気にしながらも俺の胃はついに限界に達して、俺は酒の自動販売機の隣に置かれた空き缶入れの中に少し黄色みがかった物を吐き出していた。一度開かれた食道は、次々と外へ向かう酸味を帯びた群衆で埋まり、自分でも一体なにをしているのか忘れそうになったその時、俺の背中に妙な粘液質の視線が走るのを感じた。
 俺は胃の中のものを吐き出した余韻に浸りながら、軽くその視線の光を覗いた。白く光っていたのは白いボールのような物だった。そのボールには二つの眼のようなものが貼り付けてあり、低く潰れた鼻がその下でうなり声を上げながら座っている。その下に開かれた口は薄く開かれているのだが、それが笑っているのか泣いているのか、吐くと言うことに力を使い果たした俺の脳には判定しかねた。俺の眼に気付いたのか、坊主は蕎麦屋の看板に引っ掛けてあった饅頭笠を被り直して軽く身仕舞いをするとそのまま俺の進むべき道を少し足早に歩き始めた。
 自分の見たものの正体に安心してゆっくりと手に付いた吐捨物をハンカチで拭い、その僧の後姿を見送っていた。ここから息を吹きかければそのままふらふらと舞い上がるようにも、助走を付けて体当たりしても跳ね飛ばされるようにも見えるような不思議なその歩みにひきつけられて、視界から消えようとする僧を追いかけ始めていた。
 次第に道沿いの店が途切れ、自動販売機の数も減り、転がる自転車も数えるほどになり、突き刺さるような静けさに俺の足の歩みが遅くなっていくのに、乞食坊主は錫杖を突き立てながら、まるで俺を引きずり回して楽しんでいるかのように歩む。俺は電柱の影に身を隠して探偵を気取りながら、黒い饅頭笠を目印にして川に向かう道を千鳥足で下っていく。

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テーマ : 短編小説
ジャンル : 小説・文学

月 2

 CDの音が途切れた。手元のリモコンを使ってテレビの電源を切り、電灯のスイッチの紐に結びつけた紐を引いて部屋を暗くした。それまで猫を被っていた街の光が、急にその正体を顕したように部屋の中一杯に広がっていつまでと無く続く光の輪を作り始める。どこまでそいつ等は俺を追って来れば気が済むのだろうか。どうせ逃げられないのなら・・・醒めたままの目玉を鎮めようと立ち上がった俺は、テレビの上に置かれた眼鏡を手に取り上げた。部屋の中は相変わらず静かな月の光が輪を描き続けている。振り返りたくなる衝動を押さえつけながら玄関へと向かい、緩みかけた靴紐を結び直す。
 立てつけの悪いアルミの扉を開けて、アパートの通路に出た。街灯の不完全な光が、闇に慣れた俺の目に嗜虐的な光を浴びせてくる。俺の部屋も、その隣の部屋も主を失って沈黙の耳障りな音を立て続けている。俺はそのまま、歩く度に軽薄そうに啼く階段を下り、車も通れないような狭い路地を水溜りに気をかけながら進んでいく。昼の生気を失った道は、誰一人として振り向くもののないことを悲しんでいるかのように見えた。
 電柱に掛けられた看板。歯医者、建設会社、印刷工場。置き忘れたように自動販売機が誰もない歩道の上を照らしている。そんな中を、足はあてもなく地面を捉え、意識はその上に乗って進んでいく。
 俺の足は自然と駅への道をとっていた。車の途絶えた国道を渡って、専門学校の脇、電球の切れ掛かった街灯の下を進み、放置自転車の影を抜けたところ。黒く染まった商店街の目を背けたくなるようなアーケードの果てに、俺は一筋の光を見いだした。
 いつも、どうしても眠気がやっえこないときに訪れる一杯飲み屋、黒く煤けた縄暖簾を潜って薄暗い店の中、親父はいつものようにカウンターの向こうでビールを注ぎながらふらつく手をしならせて器用にしし唐を串に刺している。俺はいつもどおり、一番奥の席に腰を下ろした。見かけない若い女が、突き出しと割り箸、そして冷めかけたお絞りを俺の前のカウンターに並べた。
「とりあえず、熱燗。それと揚げだし豆腐」
 無言のままで引き上げる女の足音が、急に響き始めた後ろの大学生達の歌声でかき消される。振り上げられる力のない拳、踏み鳴らされるのは力の抜けるようなリズム、ずり落ちかけた眼鏡の中途半端に開かれた眼。
 そのうちの一人、壁際で青ざめたその頬をしきりと拭いながら、意味もなく左腕の高そうな時計を赤い眼で覗き込んでいる男。残りの連中の顔色を覗いながら目の前にあった泡のほとんど消えかけたビールをあおる。よろけながら立ち上がり、隣の眼鏡をかけたぼんやりとした男を押しのけようと身を翻そうとした。しかし、鈍りきった彼の神経は、どこをどう間違えたのか、その左腕をビール瓶の首に叩きつけるという奇妙な選択をする事になった。
 男の左腕に瓶の首がめりこみ、遮断機のように飴色の瓶が油にまみれた取り皿にもたれかかる。しかし、取り皿は丸みを帯びたビール瓶の肩に跳ね飛ばされテーブルの中央に逃げ去った。相方を失った色黒の道化は、舞台の上で何度か地団駄を踏んだ後、気が変わったようにテーブルの縁に向かった。呆然とその有様を見ていた長髪の若造も男達もようやく瓶の目的に気付いたようで、今度は仕事にあぶれていた右腕で縁の出っ張りのために行く手を遮られていた自殺願望の持ち主の望みに手を貸してやった。眼鏡の男が持ち前のぼんやりをかなぐり捨てて救いの手を差し伸べた頃には、ビール瓶の床に向かってのダイブは完成して、床に刺々しい死体を残しているだけだった。
「割っちまった」
 四人の動きが一瞬止まる。ぼんやりと突き出しを突いている俺の視線を一瞬掠めた、長髪の男の死にかけた赤い眼。俺は眼を背ける。ガソリンのような臭みを放つ酒を運んできた赤い髪の女は慣れた足どりで店の奥から箒を持ってきて、泡にまみれた床を掃き始める。

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テーマ : 下手な短編小説ですが・・・。
ジャンル : 小説・文学

月 1

 頭の中に残された、俺の手にはどうしようもない鐘を、律儀な北風が転がしている。だが、風向きをその冷たさで感じるには俺の感覚はあまりに劣化していた。もう右足と左足の区別すら出来ない有様だ。ちらちら映る目の前の空間に、灰色のコートを着て下を向いたまま、つまらなそうに道を急ぐ通勤帰りのサラリーマンが入ってきた。きっと六時を回ったんだろう。その隣では赤い顔をした学生達が植え込みの周りをくるくると回りながらはしゃいでいる。その馬鹿面の中で、ただ唇の隅に張り付いた薄ら笑いだけが意味もなく、頼りなげに、いつまでも目の隅に焼き付く。
 こんなに多くの人が流れている広場で、俺のように座ってこの広場を眺めようと思うような奴はいないのだろうか。時折、何度か立ち止まる振りをする人もいるが、しばらくは俺の視界の中をさまよってみせるものの、俺のわずかな隙をついて、この広場から街の暗がりの中へと消え去っていく。
 きっと奴等にはどこかしら帰る場所があるのだろう、誰もいない安アパートの一室、神経症気味の妻の待つ郊外の一軒家、駅前のビジネスホテルの棺桶のようなベッド。金にうるさい愛人の住む飾り立てられたマンション。そんな、赤の他人から見ればどうでもいいような場所にしても、帰る身になってみれば立派な行き先だ。そう当たり前すぎる結論をネジの切れ掛かった頭の中で組み立ててみては、俺の今の境遇を考え合わせて、垢にまみれた頬を引きつらせて無理のある笑いを浮かべようとしてみた。
 いつからこうしていたのか、何の為にこうするようになったのか、どうしてこの広場でなければならないのか、そう言った疑問が俺の頭のどこかにいつからか隠れて住むようになっていた。そして同じ頃俺はときどき自分の視界にまでこぼれ落ちてくる、伸びすぎた前髪の一本一本に訊ねてまわるようにもなった。
「あんた、一体誰ですか」 
 地面と空を指して蚤が笑う。なのに俺は何一つできない、その力も無い。
 ふと朝日の中でもこんな風に座っていたと言ったような曖昧な記憶が浮き上がったのは、鋭い虚構の光が俺の顔面を捉えたからだろう。耳元で爆竹でもならされたみたいに皮膚の眠りが一瞬途切れる。歩道沿いに止まったタクシーのヘッドライトの明かりだ、皮膚が退屈そうにそう答える。
 俺の焦点は疲労によって固定されていた。そこには風に吹かれる度にその頭を左右に転がしては申し訳なさそうに顔色を変える噴水が、さもそこにあるのが当然と言うように突っ立っていた。青く、赤く、酒でも飲んだようにそいつは表情を変えた。どこかで見たような面、見たくもない面、もう一度見てみたい顔。風が吹くたびにそう言った顔を思い出しそうになるが、水飛沫は俺を無視して姿を変えてしまう。ただ色だけが目の奥に蓄積されていく。
 青。どうも繰り返される色のパターンの中ではこの色が一番多いようだった。そう言えば俺の記憶の中ではテレビはなぜか青い色をしている。海を映しているのか、空を映しているのか、いや、何も映していないのかも知れない。ただ俺は青いテレビの画面を見ながら一人で蜜柑を剥いていた。つまりこれは俺にまだ住む場所があった頃の記憶だ。テレビはわざと音量を絞っているようで、代わりに右隣の埃にまみれて薄茶色に見える中古で友人に譲ってもらったミニコンポから、バッハのオルガン曲が流れている。その日、俺は半年勤めていた本屋のアルバイトを解雇になっていた。
 この日が来る事くらい判っていた。そう思いながら、指先に溢れかえるこのイライラした気分はどうすることもできなくて、剥き終わった蜜柑を一口で口に入れて思い切り噛み締めてみた。歯に種が当たるのを感じた。そのまま思い切り噛み潰して、口いっぱいに脂ぎった苦味が広がっていくのと同時に指先に固まっていた灰のような感情の残り滓がゆっくりと血管を通して身体全体に拡散していくように感じられた。俺は思わず顔をしかめながら、テーブルの上に転がる蜜柑の皮から目を逸らした。
 薄暗がりの部屋の中の空気はどんよりと、俺の目は何処へともなく部屋の中を転がっている。カーテンの無いアパートの窓からこぼれる月の光、俺の目は特別な理由もなしにその姿に吸収されていった。限りなく真円に近い黄色い月。なんだ、満月なのか。そういえばもうすぐ中秋の名月じゃないか。そんなことに気付くのはもう何ヶ月ぶりだろうか。俺は万年炬燵から飛び起きると、シミだらけの窓ガラスを押し開けた。目の前に続くちっぽけなアパートの群、その遥か向こう側に広がる工業地帯からの赤黒い光にかすんで、星一つ見えない空。その上に月は静かにぶら下がっていた。月の光はまるで蛍光灯のように満遍なく眼下に広がる街を照らしている。その下に広がるどうしようもない街は墓石のように静かな光を放ちながら、俺のほうをいかにも申し訳なさそうにぼんやりと眺めている。俺は気分を変えようとして万年炬燵に潜り込んだ。暗闇以外の物は何も見たくない、そう思った。

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テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

風 6

「手紙・・・読みましたか」ゆっくりと、凍えるような声が、さりげない顔つきをして耳の奥に突き刺さる。手に残る紙を引き裂くような感覚が、音速で繰り返される。
「義孝さんが・・・そう言ったんです」砂利粒の一つ一つを数え上げているように見えた彼女の視線が、俺の手に軽く触れたように見えるのはきっと気のせいだろう。その手は引き裂かれた紙の断末魔の叫びをその耳に留めていることを訴えるようにかすかに震えていた。
「あいつは・・・いえ、佐々木さんは・・・知っている、少なくとも俺よりは、って。何を知ってるのかは教えてくれなかったけど・・・いつもそんな事ばかり言ってた」そんなことは無い、そう言おうとした俺を目で制止して、彼女は話を続けた。
「あの日、義孝さんが電話をくれて・・・いつもは私からかけるのに・・・」 
「その時、頼まれたの?」 
「いいえ、その時は、それが自殺のことだなんて気づかなかったんです・・・、ただ、しばらくは会えなくなるって・・・ちょっとこれからしなければならないことがあるって・・・、けど・・・、」こんな冷たく悲しげな言葉を俺はこれまで聞いた事があるだろうか。頬にぶち当たる風はこんなに生暖かいと言うのに。
「一体・・・なぜなんですか、彼が・・・、義孝さんが死んでしまったのは・・・」俺を見つめるその瞳から、感情の水が流れ出していた。
「何で、俺に聞くんですか?」俺はまた、煙草を取り出して、手で軽く覆ってライターに火をつける。彼女の視線は俺に注がれ続けている。俺はそのままその視線を無視して、胸一杯に煙を吸い込んだ。顔を見上げた時に彼女と視線が出会うのを感じた。敵意、悲しみが変形した先はそんなものであろう。
「そんなこと、一体、誰がわかるって言うんだ。きっと奴だってなにも知らなかったんじゃないかな。自殺の理由なんて誰も知るべきじゃないし、知ろうとするのは警察の仕事だよ。別に誰が死のうが関係ない話だからね、少なくとも古本屋の店長には。それより君は自分のことを考えた方がいいんじゃないかな?世間体ってものがあるだろうし・・・」 
 最後に滑り出したこの言葉の群れは、彼女ばかりではなく俺をも驚かせるに十分だった。別に俺は俺の残酷さに驚いた訳じゃない。残酷なのは生まれつきだ。しかし、なんだってその残酷さを世間体なんて言葉を使ってあらわさなきゃならないんだ?俺はそんなに卑怯な人間だったのか?自問自答、答えなんて出るわけも無い。彼女の表情が次第に驚きから怒りへと変貌している。彼女の目の中で俺はただの無責任な男から、世間そのものへと変換されていく。
『俺が世間だって!あの莫迦どもと同類だって!』 
俺の中で寝ぼけた目をこすっていた俺が、顔をひきつらせて怒りをこらえているのがわかる。
「じゃあ、佐々木さんは彼が死んだのは当然だとでも言うのですか?私にはそんなことは理解できません。忘れろと言うんですか?」涙、それが悲しみによって流されているものでないことは俺にもわかった。一度軽く目を伏せた後、彼女はようやく言葉を引き当てて見せた。
「理解するかしないかなんて些細なことだよ。死ぬべき奴が死んだ。残されたものはそれを受け止めるしかしょうがないんだ」本当の言葉がこぼれた時だった。俺の目には彼女が走って行く姿が映っていた。俺は偶然の凪の間に続けざまに煙草に火をつける。「奴は死にたくて死んだんじゃない、死ぬべきだから死んだんだ。それ以外の答えが、一体どこにあるって言うんだ」言いたい言葉がようやく見つかって俺は安心したように空を見上げた。空は隙間無く雲が積み上げられているというのに、雨はまだ降りそうにはない。それならば仕方がない。俺は立ち上がって向かい風の中を南へ向けて歩き出した。俺はどこに居るのだろうか、昔から考えていたことに戻ってきてしまったらしい。煙草は今日でやめることにしようか。言い訳はそれからにしよう、それでも遅くはないだろう。

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テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

風 5

 信号の無い横断歩道をゆっくり歩きながら、ビルの谷間を吹き抜ける風の色が変わっていくのを何も考えずにぼんやりと見回していた。久しぶりに歩く道だった。一見何時ものような夕方だと言うのに、やけに人通りが少ないのは近づいて来る台風のせいだろうか、道路脇に植えられた公孫樹が南から吹く生暖かい風に揺れている。不意に見上げた雲もなにやら物々しげに、西へ向けて列を組んで駆け抜けているように見える。流しのタクシーは、家路を急ぐサラリーマンを見つけようと、舐めるように路側帯に沿って走っている。俺の脚は駅に向かう大通りに飽きて、心地よい登りの勾配をもった脇道へと逸れる。大学の無愛想な鉄柵が、低く垂れ込めた雲の隙間から照る夕陽で赤く染まっている。右足、左足。どうということのない繰り返しだと言うのに、どうしてこんなにももどかしい気分になるのだろうか。脇道の急な坂、柵の隙間から気まぐれに飛び出した猫が一匹、目の前を横切る。黒猫だったか、白猫だったか。いつもだったら、そんな事ぐらいは覚えていられるはずなのに、俺の目にはただの猫の輪郭だけが、物言いたげに何度と無く走り抜けていく様が映っている。俺は一体どこへ向かっているのか。坂を登りきり、目の前のホテルに入る無関係な客たちを見ながら右に折れ、後ろから迫ってきた軽トラックを避けて、そのまま道なりに坂を下る。法学部の校舎の前の吹き溜まり、塵の山の頂上に広げられた新聞の見出し。その太枠の大見出しには、近頃、巷を騒がせている女子高生バラバラ殺人事件の記事が踊っている。写真の少女の笑顔、どこかで見た事がある気がするが、成り上った俺の頭の不正確さに気づいて、思わず拾いかけた手を止める。このまま坂を下りていけば公園に出るだろう。そこで煙草でも吸おうか。あたりを軽く見回しながら、胸のポケットに放り込んだ煙草の箱を確かめてみる。潰れた紙のケースの中に、何本かの煙草が入っているのが右手の指に感じられた。女が一人、俺の後ろを歩いている。法学部の校舎にでも行くのだろうか。俺はそのまま坂を下り続ける。公孫樹の大木が二本、俺の視界を遮ってみsる。公園の入り口、俺が通っていた時と同じ様に煙草の吸殻と紙くずが風で踊りながら俺を迎える。無様な石の階段、石屋の気まぐれとしか見えない遣り水、公孫樹の木に群がる鳩の群れ。広場に並べられたベンチには、手帳に何か書きつけながら、時折、群がる鳩を眺めている中年のサラリーマンが居るだけだ。俺は彼から少し離れたベンチに席を占め、胸のポケットから煙草を取り出すと、不規則に吹き付ける南からの突風に気をつけながら、百円ライターで火をつけた。ようやく火がついたとき、サラリーマンは手帳を右手に持ったまま近くの電話ボックスの中へと消えていった。そのまま視線を持ち上げて、俺は空を見上げてみた。鳩の群れが矢印の形をして風に逆らうようにして公園の上を飛び回っているのがわかる。安心したように引き下げられた俺の視線にはゆっくりと石段を下りてくる女の像が写っていた。階段を下りきったところで、それまで足元を見つめていた女の視線が俺のほうに向けられた。どこかで見た事があるような、今にも泣きそうな目、わざとらしく公園の砂利道の中に眼差しを落としながら、俺の頭はそんなことを考えているようだった。女はまっすぐに俺の座っているベンチへと向かってくる。足りない、そう思ったのは気のせいだろうか。彼女の周りの空気がいかにも居心地が悪いとでも言うように、俺に向かって吹き付けてくる。俺はフィルターの近くまで火の移った煙草を投げ捨てた。女は俺の前まで来ると自然と立ち止まって、俺の顔を見つめた。「あなたは駅前の古本屋の・・・」風で変質された声が、俺の記憶を昨日の今頃の時間へと巡らされる。二倍速で流れる脳裏に広げられた画面の中で、白いコートのしたから喪をあらわすピンク色がときどき転げ落ちる。俺は黙って頷きながら、彼女の顔を覗き込んだ。細い眉の下に開かれた目が、なぜか、俺の視界の中で静かに拡大を開始していた。「いや、もっと前にあったような気がするね。確か・・・ここで・・・気味の隣に誰かいたような・・・」俺の言葉が風に食いちぎられた時、女の眉が震えているのが分かった。俺は言葉を切った。風に浚われた言葉の一つが、女の隣で立ち上がって、気の弱そうな一人の男の姿へと変形を遂げた。あの日も風の強い日だったと思う。特に理由があったわけではないが、久しぶりに俺は大学に来ていた。誰ともしゃべらず、たまに見かける顔見知りの視線を避けるようにして、ようやく公園のベンチに自分の居場所を見つけ出した時、静かな笑いを浮かべながら近づいて来る二人連れを見た。どこと無くぎこちなく、吹き付ける春の風から相手を庇うようにして、ゆっくりと石段を下りて、いかにも申し訳なさそうな二人の男の視線が出会った。連れのあるような大柄の男は、急に困ったような表情を浮かべると無意識に頭を掻いて見せた。「やあ、久しぶりだね」それが「奴」だった。俺は煙草を咥えたまま、「奴」の影に隠れるようにして俺を見つめている女と、吹き抜ける風のことを考えていた。しかし、それから後どうしたのか、何を話し何について笑ったのかという段になるとまるで思い出せない。石段を下りてくる二人の様子は裾の風に揺れる有様まで正確に思い出せると言うのに、そして何かを話し何かについて笑った事だけは覚えていると言うのに。俺はその記憶をどこで無くしてしまったのだろうか、黙り続ける俺を彼女はじっと見つめている。その目の奥に、俺はなにやら罪悪感のようなものがあるように思えた。俺の目を避けるようにして地面の一隅に視線を落とすと、新しい革靴で俺の踏み潰した吸殻を蹴飛ばした。

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テーマ : 小説
ジャンル : 小説・文学

風 4

 何か夢を見ていたような気がする。今日は古本屋は休みだった。それに気がついて寝ようとしたが、壁に貼り付けられたメモで万年炬燵を引き払い、こうして大学の近くの喫茶店に来てしまった。寝る事と、働く事。これ以外のことをするのは二月ぶりだ。だからと言って別に新鮮な気分になんかなれない。むしろこうして俺として他人の目の海を泳ぐ事の後ろめたさをどのように克服するかを考えながら、息を潜めてどうにかこうにか転がってきたようなものだ。時間をもてあましながら二杯目のコーヒーの、最後の一口を飲み干した時、観葉植物の隙間からいかにも申し訳なさそうに背広姿の鶴岡が現れた。この男の浮ついた視線が、嘲笑の色をたたえているように見えるのは、俺のかんぐりすぎというものだろう。そのどこかで見た事があるような派手なスカイブルーのネクタイを見て、不意に目を背けたくなった。「やあ、ちょっと駅前で色々あってね」何か言いたげな薄い唇から、低く腹に通る声がテーブルの上から転がり落ちる。奴が時間を守る事などあてにしていなかったのと古本屋の店員の職業意識が、俺の口から漏れそうになる怒りの言葉を圧し殺してしまう。「ちょっとすみません。ブレンドとトーストお願いします」俺と眼を合わせるのを避けるためか、わざと慣れた調子で立ったままウェイターに向かって手を挙げてみせる。レジの所で雑談に興じていたウェイターは、降って湧いた客の突飛な注文に目を白黒させながら厨房に向かって飛び出していった。「ちぇ、なんだよ、今日は野郎しか居ねえじゃないか。しばらくぶりにウェートレスのネーちゃんのお足が拝めるかと思って多少楽しみに・・・やべえな、どうもどこかの人事課のオッサンみたいになっちまった」何時もの軽口の後、軽く厨房の方を見てから、俺の使い古したおしぼりでゆっくりと手を拭った。店内は確かに妙に静かに感じた。俺達の他は、眼鏡をかけた女の子が窓際で一杯のコーヒーで何度と無く窓の外を見やりながら、粘り続けているくらいのものだ。「しかし本当に誰も居ないな。金曜の昼だって言うのにこれだけ空いていると気味が悪くなるぜ」鶴岡は丹念に指の間の油をおしぼりに擦り付け終わると、席に放り投げてある大き目の書類ケースから手帳と名簿のような物を取り出し、軽くおしぼりで拭いたテーブルの上に拡げる。俺もまるでそうしなければならないかのように、それにあわせて鞄から手帳を取り出した。「別に話す事もないから本題に入るぞ。それじゃあ今度の同窓会の話だけど・・・」俺は鶴岡の持っているコピー用紙に目を落とす。妙に凝ったレタリングの文字で俺の出た高校の名前がプリントされている。そしてその下にはもう忘れかけた同級生の名前が連ねられている。上から三番目、鶴岡の名前の下に俺の名前がある。同じ大学に入った奴で括っているのだろうか。そう言えば鶴岡は法学部だった。それを思い出したのと、急に目の前が暗くなったと感じたのは殆ど同じ瞬間だった。わざと数回瞬きをして、息を整え、軽く頭を持ち上げるとそこにウェイターがいた。いかにもつまらなそうに、鶴岡の正面のコピー用紙を避けながらコーヒーとトーストとミルクを置いた。俺のほうに向けた視線が小さい頃に見た死にかけた蛙のように見えた。「おい、このコーヒー空じゃねえか。佐々木、何か注文しろよ」しきりと右手に持っているペンで手帳に印をつけながら、鶴岡は無表情のまま呟いてみせた。「それもそうだな、じゃあ、またアメリカン」勢いで三杯目のコーヒーを注文した。蛙の目をしたウェイターは聞いていたのかいないのかさえ洩らすことすら面倒に感じているようで、相変わらず無表情なままで俺の前に置かれたコーヒーカップを持ち上げた。白いコーヒーカップの底に茶色いコーヒーの滓が輪を描いているのが目に入った。コーヒーの死体、そんな馬鹿な言葉がこぼれてくる。俺は俺の中でまた「奴」についての妄想が膨らんでいくのを感じていた。「しかし莫迦な奴が居るもんだぜ、試験に失敗する度に人が死んでいたら予備校の商売上がったりじゃねえか」テレビのブラウン管の明かりが白い電話機を七色に染める。「奴」は死んだのか。実感は何一つ湧かず、耳の中を鶴岡の無意味なお喋りが通り過ぎて行く様を眺めている。どの鶴岡の言葉も、浮ついた足どりで俺の耳の中を走り抜けて行く。まるで汚い水溜りを早く飛び越えようとするときの足どりだ。そんな妄想の風景を凝視していた俺の耳が、その水溜りの中の奇妙な風景に目をつけて立ち止まった。薄汚い下宿の、砂でざらついた床の上、耳のような俺が足音をたてないようにして、その中央の奇妙な影に近づいて行くのが見える。近づいていくに従って風景は重苦しく実在の叫びを上げ始めた。こちらの方でもいつのまにか耳のような俺は、俺そのものになってしまっていた。軋む床は寂しげに湿気を帯びて、鈍い光を俺の顔に乱反射してくる。力は殆ど無いくせに、不思議なほどに目に付く霧のような光に多少閉口しながら、長すぎる玄関を通り過ぎようとしていた。その俺の視線の先、先程の奇妙な固まりが影であることに飽きて、俺の眼の中に転がり込んできた。それは、椅子の下に寝転んで、天井をみている「奴」の横顔だった。椅子の背もたれには包丁がぶら下がり、刃は俺の喉に向けたまま左右にゆっくりと揺れている。天井を向いた「奴」の顔は不思議なほど白く、そして、安らかに見えた。振り子は背もたれとの摩擦でゆっくりとその力を失っていていき、いつの間にか止まっていた。包丁の刃に一瞬、俺の顔が映った途端、「奴」は足の親指と人差し指に挟んだビニールの紐を放した。すると相変わらず静かに、それでいて確実に、包丁の刃がもう既に生気を失っている「奴」の気管に突き刺さるのが見えた。噴水のようにあふれ出る血、喉を走る痛みに、一瞬、「奴」の口元が歪む。喉に突き立った包丁が、ゆっくりと右に倒れ、「奴」の喉を引き裂いてゆく。吹き上がった血を浴びた包丁の柄が、ようやく床に当たってその円運動を中止した時、呆然とその有様を見守っている俺の目に、明らかに死につつある「奴」の視線が当たったような気がした。声は聞こえないが、確かに「奴」の口元は何かを語ろうとしているように見えた。しかし、動きもすぐに止まり、ただ不気味な死人の視線だけがそこに残っていた。俺はその視線を避けるべくドアを開けて飛び出した。冷たい空気が、一瞬、背中を転げ落ちたように感じた。「おい、聞こえてるのかよ。だから俺はお前を副幹事にするのは嫌だって言ったんだよ。だから、この名簿を人数分コピーして、それを全員に送るのがお前の仕事だぞ。分かったな」厚くマーガリンを塗られたトーストを頬張りながら、鶴岡はしきりと時計を気にしていた。内定企業の拘束でもかかっているのだろうか、鶴岡のことだ、口には出さないが相当苛立っていることだけはいつものこぎれいな格好をしているこの男のネクタイが歪んでいることと、スーツに飛び散ったパン屑を見ればわかる。「わかったよ。悪かったな、それだけのために呼び出して。なんか時計気にしてるけどこれからなにかあるのか」「実は会社から呼び出しかかっててさ、また訳のわからない講習とか受けさせられるんだろうけどよ。本当に、お前はいいよなあ、勝手気ままに行きてられて。その点俺なんか・・・」いい気なもんだ、そう思いながら封筒に入った名簿を受け取って俺は立ち上がった。「なんだ、もう行くのかよ」鶴岡はコーヒーを啜りながら俺を見上げる。「ああ、金はここに置いていくから」ポケットから千二百円を取り出してテーブルの上に置き、店を出ようと鈴のついたドアを押し開けた。鶴岡は手に付いたマーガリンに悪戦苦闘しながら俺に肩を押し上げて軽く挨拶する。「糞馬鹿野郎」口の中でそう呟くと、そのまま喫茶店を後にした。

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テーマ : 下手な短編小説ですが・・・。
ジャンル : 小説・文学

風 3

 光線がゆっくりと力を失っていくのに、それでも気が済まないかのようにそれは死人の頬の色になっていた。俺の指の間から転げ落ちたボールペンが、カウンターの縁にぶつかって止まった頃には、それは純白の死装束になっていた。止まったように見えていたボールペンが気だるそうに落下運動を開始する。それに併せるかのように店内が歪み始めた。気づけば、俺は闇夜のようにしんと静まり返った小部屋の中央に腰掛けていた。足元には桐で出来た棺桶が置かれている。俺は傾いた丸椅子から立ち上がって、棺桶の側に立った。中には店に入ってきたあの女が、まるで何かを待っているかのように眠り続けている。俺の頭の中の俺はそのまま棺桶の側に腰を下ろして、別に悲しむわけでもなく、棺桶の中で白くなり続けている彼女の顔を覗き込んでいる。肩にかかった髪の先がダークグレーから薄い灰色へと変化していく。薄く塗られた口紅だけが、取り残されたように赤く顔の中央をなだらかに彩る。俺には、彼女が待つものが何時までたっても現れないだろうという奇妙な確信があった。なぜそんなことを思うのだろうか、俺は何も知りはしないのに、俺の煙草の火が燃え尽きて、プラスティックの溶ける時の鼻を突くにおいで我に返った。細い通路越し、店内を一回りした女が、多少遠慮がちに俺の目の前に現れた。「あのいいでしょうか」俺は燃え尽きた煙草の吸殻をカウンターの片隅に置かれた灰皿に放り込んで、無為な幻想を忘れ去ろうとする。顔面の神経を走る職業意識は、素早く俺を古本屋の店員へと変貌させた。視線は女の右手にある埃にまみれた商法概説Ⅱを捉える。すると俺の意識とは関係ないところで、記憶の倉庫からハードカバーの専門書の定価が呼び出される。「この本なんですけど」俺の声帯を中心とした全身の筋肉が、次に切り出される彼女の言葉にむけて準備の態勢に入るのが分かる。「ああ、その本ですか。ちょっと見せてください」もうすでに分かっている定価を調べるべく、俺はカウンターへ置かれようとしている本に手を伸ばす。俺の手の先が本に触れようとした瞬間、彼女の手が急に引っ込み俺の指が空を切った。別にこのようなことは珍しくないさ、突然、俺の中でそんな声が聞こえるのは先程の幻影のせいだろうか。「これ・・・」何か言いたげに凍りついた眼。しかし、俺はただの店員にすぎない。ただ彼女の決心がつくまで待ち続ける。時折、解けかけた瞳が右手に滑り落ちてゆく、まるで葬儀の席のような眼差しだ、そう思うと同時に、彼女の眼が影のように黒い色に染まり始めた。本来の嗅覚が香水の匂いで満たされ、穏やかで悲しげな噂話の列が目の前を過ぎる。一体、誰の葬式だろうか、顔の無い参列者は一体誰なのだろうか。俺の視線の中央には、相変わらず、彼女が商法概説Ⅱを右手に持ったまま、目の前を運ばれていく棺桶を見送っている。白い布に覆われた棺桶はゆっくりと参列者の列の間を通り抜けて、頑丈そうな焼き場の釜の中へ滑っていく。二重顎の坊主が低く重たい声で話し始める。周りで漏れる啜り泣きのせいか、坊主の話し始めた「迷い」という言葉しか聞き取れなかった。参列者はその話を聞き流しながら、燃え続ける釜の中を想像して俯き加減に知りもしない死者について語り合っているようだ。坊主はようやく気が済んだように、なにやら手に持った数珠を摺り合わせて奥へ引きさがって行った。参列者もそれに合わせるようにお互い肩を寄せ合うようにして奥の間へ行進を続ける。双子の大男が薄ら笑いを浮かべながら焼き場を後にして、俺と商法概説Ⅱを持った女だけがカウンター越しに残された。不健康なほどに白い女の手がゆっくりとカウンターに伸び、無言のまま箱に入った本を灰皿の隣に横たえた。自動的に俺の手がそれを持ち上げ、箱をゆっくりと外す。俺は手垢にまみれた黄色い表紙に新しいシミが付いているのを無視して裏表紙をめくり値段を・・・、
 1992年9月2日生協にて購入
 遠山義孝

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テーマ : 小説
ジャンル : 小説・文学

風 2

 大学を中退して、家を裸同然に追い出され、街の中を転がるようにして二年ほど生き延びていた。生きていれば妙な偶然にも出会うもので、あれほど無責任な男の筈だった俺が、いつの間にか古本屋の店長になっていた。まだ見習いの頃、どこから聞きつけたのか、店にはよく優越感を味わいに、昔の仲間がやってきた。しかし、それも奴等が四年になってからは急に途絶え、奴等のことも、奴等がいた学校のことさえ忘れかけていた。それどころか、近頃では生まれた時からこうして古本に埋もれていたみたいに、ぼんやりとカウンターに座っていることが俺の天職のように感じるようになってきたくらいだ。別に大学の連中のことなんて気にしてはいない、そう考える事自体がコンプレックスって奴なのかもしれない。決まって夕方と呼ぶには少し遅すぎる時間、なぜかいつもそんなことを考えていた。そして、そう思う度に頭を掻きながらテレビのスイッチをつけるような癖が、いつの間にか身体に染み付いてしまっていた。テレビのブラウン管にはコマーシャルが繰り返し流れている。俺の視線は店先に流れ下る。たいがい、そんな時に限って「奴」がやってきたものだ。不意に記憶の奥から見慣れた風景が湧き上がってくる。一月か、二月に一度、丁度「奴」の名前を忘れかけた頃に店に現れる。今思えば、「奴」がやってくる日は決まって、少し嫌味に感じるくらいに晴れた日だった気がする。店の前の自転車の垣根が無くなって、ようやく暇になったかなと思い、カウンターの隣にあるテレビを眺めながら売り上げ計算の続きをしようと、戸棚からノートを取り出した時、手に大き目のボストンバックを釣り下げて伏目がちに引き戸をゆっくりとあけようとしている「奴」の姿が目に飛び込んでくる。いつものように大柄な身体を申し訳なさそうに折り曲げながら、時折、店内を軽く見回して、何も買うべき物がないことを確認すると、俺の視線を避けるように陳列台の影を選んでカウンターに近づいてくる。カウンターの前で下がった銀縁の眼鏡をゆっくりと押し上げ、ついでに右腕の時計で時間を確かめ、四角い顔の中に貼り付けられた蜆のような小さな目を見開いて軽く息を整える。「また売りに来たよ」カウンターの手前で遠慮がちに呟くと、ボストンバッグからビニールの紐で大きさごとに縛った本の束を取り出す。大体中に入っている本の傾向は決まっていた。漫画本五、法学書三、文学書一、その他一。そしてこの店の品揃えも法学書の分を除けば大体そう言った割合だった。そう言えば、漫画本の束の隙間からピンク色の表紙がこぼれた時に「奴」の顔から情けなさそうな笑いが漏れた事だけがなぜか記憶に残っている。俺は「奴」から本の束を受け取ると、一応、手元の表とつき合わせて値踏みをし、それに若干色をつけた金額を手渡した。その数分の間、「奴」はしきりと店の外を眺めながら、一方では俺の手際の悪さに苛立っているかのように、何度か足でカウンターを蹴りながら黙っていた。誰かを待っているんじゃないだろうか、どれくらい色をつけるかを考えながら俺は片方でそう思っていた。実際、駅前のこの店を待ち合わせ場所にしているらしい人間を俺は三組ほど知っていた。セーラー服を着た少女が一人、しきりと腕時計を気にしながら少女漫画のコーナーを行ったり来たりしている。何度も棚から本を取り出して、くるくると手元で回してみてはいるが、棚に並べられた本が、その薄っぺらな鞄の中に入った事はない。レジを弄くりながら店の前を見ていた俺の視線の中に、スポーツタイプのオープンカーの急停車する姿が飛び込んでくる。少女の背表紙を眺めていた目が、店の前のオープンカーから降りようとする頭の悪そうな男の後頭部に注がれる。それも一瞬のことで、彼女は店の中を軽く見回してそのまま出口の引き戸を開けて飛び出していった。男の手が彼女の腰に伸び、男は乱暴に車内へ女子高生を詰め込んで車を来たときと同じ様に急発進させる。「すまなかったね」エンジン音にかすみそうな声で「奴」は申し訳なさそうに空のボストンバッグを小脇に挟むと、生活書の居並ぶ一番狭い通路を、背中を丸めながら出て行った。「奴」の白っぽいシャツにやけに赤く染まった夕陽が当たってピンク色に見えたのが今でもはっきり脳裏に焼きついている。あれが最後だった。確か今日みたいに客の少ない水曜日だったと思う。そう言えばあの少女もあの日以来、見ていない。別に男でもできたのか、それともあの男に捨てられたのか。こんな狭いところに一日中座っていると、元々、人のことなど気にしない俺でも、そんな他人のつまらないゴシップに妙な関心を持ち始めるようになる。惰性で付けられた金庫の上のテレビの中で、「悪代官」が袈裟懸けにされた。客の一人も居ない店の中に虚しく響くファンファーレ。俺はカウンターの下から灰皿を取り出して煙草を吸い始めた。煙草の煙が尻尾を引きずりながら出口の方に這って行くカウンターの上、ノートに六百八十円と書いて、ボールペンを指でくるりと回した。あと、三十分は客が来ないだろう。そう思って犬を抱えた子供達が走っているテレビに目を移した時、引き戸が開けられた音がするのが聞こえた。顔を上げるとまず淡いピンク色が飛び込んできた。次第にそれが広がっていき、そして一人の人間の背中を形作った。「奴」の背中も確かこんな色だったかも知れない。俺の瞼の裏側でピンク色のワンピースが裏返しになる。特に見慣れた顔でもないが、別に始めて来る客というわけでもない。いつも法学書ばかり買って帰る奇妙な客。今日も彼女は文庫本のコーナーを素通りして、店の片隅の文学全集の合間に僅かに置かれた法学書を、一冊、一冊、あらためている。その殆どは「奴」が持ってきたものだ。なぜだろう、「奴」の事を思い出すたびにそのピンク色の背中の色が少しづつ褪せていくような気がする。それは目の奥に染込むような濃いピンク色から、「奴」の背中に浮き上がったあの淡いピンク色になった。

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テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

風 1

 みんな「奴」のせいなんだ。そう思うと、途端に錆色の粘液が、頭の中の毛細血管に詰まったみたいな感じがして、どうにもならなくなった。眼の焦点はその機能を忘れて、上下左右に歪んだ像を、土色の網膜に叩き付ける。どうすればいいのか、何一つ考えがまとまらない。まるでそうするのが義務であるかのように、ぼんやりと座り続ける俺。壊れかけた俺の意識が、ちらつくテレビの画面に引っかかって止まった。画面では女のアナウンサーが、日本列島に近づいている戦後最大級の台風について、いつ止むとも知れない無駄話を続けている。不安と期待を漲らせた薄ら笑いが、十四インチのちんけな俺のテレビの画面を、長々と占領し続ける。その間抜け面の隣には吊るされた手拭みたいな四十がらみの予報官が、事務的な調子でその無能さをさらけ出してみせる。「・・・明日の夕方には八丈島の南海上三百キロを中心とした円内に進む恐れがありますので海などにお出かけの方は十分に注意をなさってください」目から耳から嫌味な感情の霧のようなものがかかってきたので、俺は視線をテレビから引き剥がした。だからといって、何処に目をやればいいのだろう?部屋の中はいつも通り閑散として在るだけだ。もう一ヶ月も音を出したことのない安物のステレオ、薄く埃を被った隙間だらけの本棚、あらぬ時間をさしたまま動かない時計。どれもこれも以前のままに突っ立っている。そのなんと不釣合いで無様なことだろうか!黄色く濁った午前の光の中でなければ、とても目の当てられたもんじゃない。その中でも、本棚の上に置かれたコップの中の、半分ほどのところまで水が入ったその中の、窓越しに突き刺さる朝日に輝いてみせる緑色の目玉。転げるようにして家から飛び出したときに持ち出した、マリモの置物。腐りもせず、枯れもせず、ぼんやりと、今にも倒れそうな本棚を支えているあのつまらない置物だけが、俺をこうして生かしているのかも知れない。急にそんなばかばかしい妄想が生まれてきたのは、俺の座っている足の不安定な万年炬燵の上に、一枚の封筒が置かれているからに違いない。そいつは薄茶色の身体の端を少し折り曲げて、どこにでもあるような封筒のフリをしている。精神が切り刻まれてぼろぼろになった俺でも、こいつの優等生ぶりなんかに心を乱されるつもりは毛頭ない。実のところそこに「奴」の名前が書かれていなければ、こんな封筒さっさとゴミ箱に放り込んでしまう筈だったのだから。本当はそうすべきだったんだ!俺の中に残った僅かな理性が消え入るように叫び声をあげた。別に「奴」自身が特別な人間だったと言うわけでもない。ただあえて「奴」の特別な点をあげるとすれば、「奴」は一週間前に死んでいたというだけの話だ。自殺だった。司法試験に落ちたショックだ、「奴」の友人で同じ様に司法試験を受けた連中はそう言って口述試験まで残った「奴」を嘲笑した。俺もその話を聞いた時、正直なところ同じ様に考えていたものだ。別にそれほど親しかったわけではない。学部も違い、たまに大学生活のつまらなさについて語り合う数少ない相手と言うのが、「奴」との関わりのすべてだ。孤独なはぐれもの、「奴」の口振りからそんな印象を受けたのを覚えている。ある意味では俺に似ていたのかも知れない、たぶんそのことが俺の頭に「奴」の名前を叩き込んだのだろう。そうでもなければ自殺するような馬鹿な男の名前を、どうして俺が覚えていなければならないと言うんだ?同情と侮蔑に満ちた愛情の表情が板に付き始めてから一週間が経ったが、そのあいだに「奴」が生き返ったという噂は、終ぞ耳にしたことはない。少しだけ不審に思って俺の意識が封筒の消印を探った。九月七日、杉並。無表情な消印は二日前に杉並で投函されたことだけを示していた。俺は封筒を持ち上げ目の前に翳してみた。窓からの淡い光が、一枚の便箋を封筒の中に浮き上がらせる。引き裂くべきか、読むべきか。悪戯にしても、またそうでないにしても、それは俺にとって難しい選択だ。死人からの手紙をどう扱えばいいかなんていう話を、俺は一度も聞いた事がない。それなのに、俺の仕事をこなすことしか考えない俺の手は、理性の小言など無視するかのように糊付けされた部分を千切り始めた。心の準備もする間もなく白い便箋が俺の目の前に引きずり出された。「佐々木。お前だけには俺の死んだ本当のりゆうを知ってほしい」横に引かれた罫線を無視して、ボールペンのインクが流れ下っていた。何で俺だけになんだろう。俺以外の誰でもなく、何で俺でなければならなかったのだろう。ただ人間が嫌いで、街の片隅で本ばかり読みながら生きている俺を苛めるのがそんなに面白いのか?テレビには天気図が映し出され、その前でうだつの上がらない中年の予報官が慣れない原稿を読み上げている。俺もその予報官もこのつまらない事件さえ無かったら。こんな事に悩まずに済んだのだろうに。そんな考えが頭を過ぎ去った時、部屋の隅に捨て置かれた腕時計のアラームが、出勤の時間に近づいた事を告げた。俺の身体は「奴」の手紙を開いた時と同じ調子で、万年炬燵から俺を引きずり出した。

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鳥 5

 なんと言う事だろう、俺はこんな山奥にまで逃げてきたと言うのに、
「もう少し私の身にもなって考えて下さいよ。兄はああ見えて結構心配性で何か気に入らないことああったのかって私に聞いてくるんですよ。それに今日これからハンティングの予定が入ってますから、それには必ず出てもらいますよ」 
 機械的な足どり、ミネラルウォーターを持って戸口に立っている吉岡を押しのけてTが部屋から消えていく。ようやく俺も一息ついてベッドに再び横たわる。
「俺が何をしたって言うんだ」 
 吉岡は聞こえないふりをしながら、薄汚れたコップにぬるいミネラルウォーターを注いで俺に差し出した。横になったままそれを受け取る。バランスに気をつけながらゆっくりと頭から腰にかけて湿ったベッドの表面から引き剥がす。窓からさす日差し、赤く染まりかけたその一筋一筋が、水面に落ちた埃の欠片の起こす模様を浮かび上がらせる。
「なあ、吉岡よ」 
 吉岡は窓の外を見つめていた。景色、きっとそんなものを眺めているのだろう。それが何になるというのだ、そういう言葉を吐きそうにになって俺は自分でも驚いた。
 風景、そもそも俺はそんなものを相手にするためにこんな山奥にやってきたのか?いや、そもそも俺はこんな所にいる理由など有るのだろうか。所詮、誰一人として真剣に見る事のない雑誌の背景に使われる写真。風景も言葉も、ただの記号に還元されてしまう世界。感動が金の目方で計れると考える連中への給仕。俺が自分のしていることに気づき始めたのはこの仕事のことが掴め始めた頃からだ。しかし、はじめのうちは割り切ってやっていられた。実際世の中はそんなものだ。俺のカメラに写る物達だってそう割り切って生きているに違いない。しかし・・・、
「また考え事ですか。ここ数日ずっとそうして下を向いて、先生変ですよ」 
「別に今に始まった事じゃないだろ」 
 無理に顔に笑いを浮かべようとしてみる。ヤケに頬の肉が重く感じる。
「下は何か大変みたいですよ。色々軍服を着た連中が出入りしているみたいですし、先生何か聞いていませんか」 
 吉岡は屈託の無い笑顔を浮かべている。奴は何時になったら俺の気持ちが分かるのだろうか。仕事の方は一人前、いや、それ以上だ。しかし奴は何もわかっちゃいない。
 起き上がる。別に何の苦労も無く身体は素直についてきてくれた。
「平気ですか」 
 無視して俺は靴を履き、壁にかけてある上着を素早く羽織った。昼間の車の中の暑さがぶり返したように、全身から汗が噴出しているのがわかる。
「本当に大丈夫ですか」 
 額の汗が眼に流れ込み、心配そうに俺の顔を覗き込む吉岡の顔がゆがんで見えた。なんだというのだ、これがなんだって言うんだ。吉岡の眼が鳥の眼のように見える。
「大丈夫だ。そんなことより昼間の鳥のこと覚えているか」 
 呆然と俺を見つめ続けるその眼、あらゆる感情が一瞬停止したような無感情なその眼。お前は本当に人間なのか、そんな言葉が思わず口から出そうになる。口の中が次第に乾いていく。なぜかわからない。どうしても寝ていられない、俺は吉岡を押しのけて部屋を飛び出す。
 理由なんてどうでも良い。後ろから俺を呼び止める吉岡。髪を振り乱した外国人の奇行を好奇の目を持って見守る薄汚い兵士達。奴等の眼はどれも人間の眼じゃない。
 突き当たり。黒くひからびたドア。漆喰で塗り固めた白い通路をいきなり途切れさす黒い笑い。俺はその扉を蹴飛ばしてそのまま暗い倉庫に飛び込んだ。
 暗い棚が延々と続く窓の無い小部屋がそこにはあった。少し大きめの棚にの中には、整然と自動小銃が並んでいる。どれもこれも手入れが行き届いているらしく、奥からこぼれてくる白熱灯の光に黒い銃身を僅かに橙色の油で化粧をしていた。
 狭い棚の隙間を縫い、雑然と置かれた迫撃砲の林を抜けると、白熱灯の下、作業場とでも言うべき場所で銃の手入れをしている男がいる場所に出た。男はまるで俺を待っていたかのように顔を上げる。おきまりの挨拶笑い。幸い光の加減で奴の眼は見えない。しかしそれがTの眼である事だけはよくわかった。
「見てくださいよ。銃、銃、銃。どれもこれも人の一人や二人撃った事のある奴ばかりですよ」 
 押し付けがましいヒューマニズム。俺はただTの眼だけを見つめていた。黄色く染まった白目。白熱灯の黄色い光のせいばかりではあるまい。その中に浮かんだぼんやりとした黒目はどんよりと濁ってその中に感情の光を見つけ出す事は難しい。
 あの鳥の眼と比べたら!
 俺はあたりを見回した。銃は静かに出番を待っている。
「なるほど。蝶、風景、そしてハンティングか。なかなか良い行楽地になりそうだな」 
 撃つ相手が服を着ているか着ていないか。要するにそれだけの差ではないか。
「ほめてるんですか、ボス」 
「だけどあんな鳥ならすぐ絶滅するんじゃないのか」 
 いや、あの鳥の方がもっとましだ。こんな濁った眼の持ち主達に奴を撃つ権利なんてあるものか。
「そうしたら豚でも牛でも放しますよ。そうすれば今度は安定的に観光収入が期待できますし、それ以上にここの生活も楽になるというものです」 
 牛、豚。どっちにしたってこんな濁った眼なんか持っちゃいない。
「ここの人間なんか絶滅しちまえばいいんだ」 
 Tの顔が蒼ざめる。
「お前らみんな飢え死にすればいいんだ」 
 Tは一旦銃の方に目をやった後、どす黒い顔を俺の方に向けた。何十年、いや、何百年という恨みがそこに結実したようにその眼は静かに見開かれていく。銃は静かに彼の傍らで出番を待っているようだった。
「悔しいか、憎いか。撃ち殺したいか。ああ、撃てよ。好きなだけ撃てよ」 
「何言ってるんですか、先生。本気で言ってるんですか」 
 吉岡が叫ぶ。
「ボス、あなたには幻滅した。私は・・・」 
「撃てよ。所詮俺はあんた等の敵だよ、丁度あの無様な鳥みたいにね。あんた等のお宝を食い潰すあいつ等・・・」 
 銃声が響いた。

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テーマ : 自作小説
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鳥 4

 不思議と言えば彼女の格好も不思議だった。ズボンを少し太くしたような濃い緑色の袴を履き、襟元から胸にかけて大きく太陽を模したと思われる縫い取りをした服のベルトと思われる皮ひもの下から紅の縁取りが膝のあたりまで伸びている。そして白く大きな円筒形の冠の両脇からは金色の装飾品が口元あたりまで垂れ下がり、髪はその中にまとめ上げられているようでお下げの髪が二筋両の肩の上を滑り降りている他は見ることはできない。
 俺はヨロヨロと、驚きと喜びに自分を見失いそうになりながら立ち上がった。少女はと言えば相変わらず大きな口の鳥を抱えたままで俺の方を微笑みを浮かべたまま見つめている。風が吹く度に冠の房の間から南国に似つかわしくない白い肌が見え隠れする。何を話せばいいのか、話したところで通じはしないだろう。俺は何をすればいいのか、ポケットカメラのフィルムはもう空だ。ただ口を開けて彼女の様子を見守る無様な茶色の鳥とともに次に彼女が何をするのかをじっと見守るしかないのだろう。
 風が吹く、木の葉が数枚落ちる。そしてその中の一枚、エメラルドグリーンの一際大きな葉がふわふわと空に向かっていく。
 突然、少女が胸に抱えた鳥を放り投げた。鳥は重力に従って尻餅をつくとすぐに立ち上がって上空を舞うエメラルドグリーンの大きな葉を追いかけ始める。そしてその後姿を確かめるように少女は歩き始める。俺もまたその影を見失うまいと大股で歩き始めた。
 空を舞う葉はふわふわと上昇気流に揉まれながら、林の中を漂うように飛んだ。眼がその静かな姿に慣れていくに従って、それがあの村で見た蝶らしいことがわかってきた。一体何だってこの不恰好な鳥はあの揚羽蝶を追うのだろうか、あの姿が憎いのだろうか、かつての記憶を思い出したのであろうか。それとも少女がこの鳥を仕込んで揚羽蝶を捕らせているのだろうか。相変わらずどたどたと、まさに地を這うという言葉の通り無様な進軍は続く。空を舞う蝶に比べるとその姿は滑稽に過ぎた。Tがあれほどまでにこの鳥を殺そうとしたのも、その姿を見れば頷ける。しかし何だってあんな拳銃を使って、この鳥を殺すのだろうか。こんな動きの鈍い鳥なら素手でも捕まえることはできるだろうに。
 クワー、鳥の鳴き声が林にこだまするのを聞いて俺は我に返った。黄緑の木が一本、俺のちょうど正面にあった。何やら緑色の固まりが幾重にも覆い被さって隙間一つ無い。鳥はその固まりを大きな口で剥がしては飲み込んでいる。よく見るとそれは蝶の幼虫だった。何万何千という数の芋虫が一本の木に集ってその葉も枝も幹も食べつくそうとしているかのようだ。時折その幹から飛び出した枝には幾つと知れない蛹がまるで木の実のようにぶら下がっており、その周りを蝶が、今までに見たことも無いような数の巨大な蝶が舞っていた。 
 俺の傍らで鳥の食事を見つめていた少女が懐から小さな銀色の笛を取り出した。キーンと言う金属的な音が森の中に響き渡る。そしてまもなく草の陰から次々と茶色い不恰好な鳥達現れ、木に集まる芋虫達を次々に食らいはじめた。芋虫が次々とあの巨大な真っ赤な口に飲み込まれていく度に幹や葉が次第に見えてくる、どうやらこの木はかつてあの森の入り口にあった村人達が樹液を採っていた木であったようだ。舞う蝶とそれを襲う醜い鳥達。いつまでもなくその光景が拡大していく。

 急に意識がはっきりとして俺は自分がベッドの中にいる事がわかった。きっとあのまま気でも失っていたのだろう。ふと頭をまわすと相変わらず吉岡が漫画を読んでいる。
「水をくれ」 
 俺が目覚めた事に気づかない吉岡をせきたてる。
「あ、眼醒めたんですね。水ですか、ええと、確かミネラルウォーターの瓶が・・・」 
 吉岡が出て行く後姿を見ながらこの部屋の中を観察する。二人が泊まるにしては大きすぎる部屋だ。壁には幾つとない猛獣の首が晒されている。まるで死刑囚のような気分だと一人で考えながら窓の外にまで視線を走らせた。
 夕陽に次第に変色しながら青い峰が果てしなく続いている。しかし何処と無く変だ、そして俺はその窓の中央に立ったTの姿が俺に変な気持ちを起こさせていた事がわかった。
「ボス」 
 Tは怪訝そうな眼をしている俺に向かって歩き寄ってくる。これまで奴に感じた事のない威厳に圧倒されそうになりながら、俺はようやくベッドから上体を起こした。
「あなたもずいぶん変わった人ですね。私もずいぶんこの村に日本人を案内してきましたが、あなたのような人に合うのは初めてですよ」 
 何という威厳だろう、猫背だと思っていたTがヤケに背筋を伸ばして俺に近づいてくる。もう少しで取り乱す、その極限のラインでようやく奴の後ろに影のようにして張り付いているものを見つけた。

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鳥 3

 博物館の裏にはゴミの山があった。野犬が数匹俺には目もくれずにその山を漁っている脇を通り抜け、原生林の中に入っていく。鼻を突く甘い香りはあちこちに見える黄色い花の匂いのようだ。この村に入ってからと言うもの派手な色のものを見るとどうにも腹立たしい気分になってしまう自分に少し呆れながら、黄色い花が咲く森の下、獣道をそのまま歩き続けた。
 果てしなく茂る笹を切り裂いて道は何処までも続いていた。きっと樹液でも採るのだろう、道端の木に小さな木の椀がくくりつけられている。何百年と無く村人達が森に入るために切り開かれた道。しかしその道を森の破壊が通る事になるとは皮肉なものだ。 
 急に視界が開けて目の前に大きな倒木が横たわっている。獣道は少しばかり間の抜けたようなその倒木の周りで細い支線に分かれている。露出した土の上が黒く焦げているのはここで火を焚いて森の出来事でも語り明かすからなのだろうか。俺は彼らと同じ気持ちで大きな倒木に腰をかけた。
 煙草に火をつけようと腰を上げた俺の目の前に動くものが映ったように感じた。ゆっくりとゆっくりとその丸いものは藪の下を移動していく。俺は思わず胸のポケットから小型カメラを取り出してその物体が出てくるのを待った。
 あの鳥だ。ヤマアラシに良く似た球状の体を持ち、その下に二本の太い足が伸びている。心臓の鼓動が早くなってシャッターの上に乗せた指が汗で滑るのがわかる。突然自分の概念が破壊されたようだ、頭の中まで少しづつ曇ってきた。しかしそんなことはお構いなしに鳥は静かに藪の中で地面をほじくり返してはしきりと何かを探しているようだった。俺は息を殺した。できるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹をかき分けて大きな木の根元の少し開けたところまで来た。
 鳥の姿はこちらから丸見えになった。大きく裂けた口をときどき開くが、その中身は血にまみれたように赤く、それを見る度に背筋が寒くなるような気がした。
 しかし、何より俺を驚かしたのはその眼だった。その眼は鳥の眼というよりも人間の眼に近かった。なぜか悲しげに俺の方を見つめて来るその眼と視線が合う度に俺はなぜか気まずい気分になってシャッターを切ることができなかった。
 俺はしかたなく観察を続けた。そして、その動物に小さな羽があることに気づいた。時折ばたばたと恥ずかしさを押し隠すように軽く羽ばたいてこの沈黙をごまかしているようにも見える。やはり鳥だ。間違いない。俺はシャッターを切った。
 ストロボの光が、草陰を黄色く染める。
 急に鳥は走り出した。決して早くはない。大股で歩けばすぐにだって追いつくことはできる。しかし俺はあえて捕まえようともせずにその鳥の走っていく方向について行った。
 茶色い羽はこの土地ではかなりの役に立つ。うっかりすると木の根や泥と勘違いして見失ってしまうことも度々あった。しかし慌てているのか、ばたばたと打ち鳴らす羽の音で俺は自分の間違いに気づきすぐ追跡を開始することができた。
 森はだんだん暗く、深くなっていく。鳥は相変わらず無様な逃避行を続けている。それはまるで逃げるというよりも俺をどこかに案内しているように見える。もし、彼に急に立ち止まってじっとしていると言うような能があれば、とうに俺は彼を見失っていたことだろう。
 鳥の逃げる速度が遅くなってきた。俺にはときどき立ち止まっては逃げていく鳥の姿をカメラに収める余裕が出てきた。鳥の方は相変わらず必死になって疲れてきた体に鞭打ちながら森の奥に向かって走り続ける。
 時計は三時を指していた。もう三十分はこうして間の抜けた行進を続けたことになる。急に森が切れて原っぱのような所に出た。光が急に激しく俺の脳天を撃った。目の前が一瞬白くなり視界が奪われる。俺は眼を閉じて地面に蹲った。時間が流れていった。俺は何度となく立ち上がろうとしてみたが、足にそれまでにない疲れを感じて立ち上がれずにいた。さすがに三十を過ぎた体にはかなりの無理が来ていたようで、足ばかりでなく体のあちこちが激しく痛み出した。
 風を感じた。村を出て初めて感じる山から吹き降ろす冷たい風。俺の後ろの森が悲しく啼く。
 風の音に混じって、足音がしたのは気のせいだろう。はじめのうちはそう思っていた。しかし確かに草を踏みしめて近づいてくる音が俺のすぐ近くにあった。鳥だろうか、いやそんな筈はないだろう。俺が蹲ったときにもう逃げてしまったはずだ。それなら・・・、俺は頭を上げた。
 それは少しばかり奇妙な光景だった。先程まで俺から必死に逃げようとしていた鳥を一人の不思議な格好をした少女が抱きかかえている。鳥は不思議そうに蹲っている俺を眺めている。まるでさっきまでの鳥の立場に置かれたようで俺は鳥に向かって笑いかけた。しかし、その少女の格好を見るとその苦い笑いが次第に本当の笑いに変わっていくようで不思議な気がした。

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